日付:2021年5月 

  「さがしものはなんですか」へのメモ……(3)

 

水辺の鳥  

 

 
      拾い読みの読書から連想 (3) あるいは、台本のわからなさ
 
 
 長い間、思いつきだけで芝居の台本を書いてきたが、今回の「さがしものはなんですか」の台本の場合、わたしじんの作業にわたしの意図的なダメさや不安があるとしたら、任意や偶然にすぎない登場人物(場面)たちの繋がりを、あたかも必然みたいにして繋がりがあるかのように仕向けられて書かれているところだ。任意や偶然はそのまま放置され、お客さんの見たままに任せればよいのに。
 
 具体的いえば、今回の「さがしものはなんですか」の台本に登場する<Two Street Singer> という存在だけが、作者にも不明な不思議感を内包した人物として登場している。任意の存在でありながらそのまま放置され許され存在しているかのようにだ。
 
 違う言葉でいえば、彼らはじぶんが孤独であることを表白することはないし、他の登場人物たちとも交渉を積極的に結ぼうとはしない。彼らは、舞台上でじぶんたちの出自も来歴も語らない。また彼らは、場面と場面の裂け目、谷間みたいなところで登場してきては、すぐに消えてしまう。こういう存在をなんといったらよくわからないが、昔、TVの番組で、クレイジー・キャッツの植木等さんが場違いな場面へ登場し、捨て科白のように「お呼びでない? こりゃまた失礼しました」といいながらみずからをTV画像から消去してしまう瞬間があって、とても面白く思って見ていた。けれども、<Two Street Singer>は、植木等さんの存在性とはちょっと違い、ほんの少しだけ作者の作るに世界に向かって、彼らがそこに存在すること自体で差異(異和)感を表現している存在であり、そこに彼らはじぶんの存在の意味と価値を発生させながら、幾分か芝居自体を分裂させているのではないか、そう思って書いている。
 
 もう一人、彼らと同じように、舞台に存在すること自体がそのままの差異(異和)感意味となるのは、今回の台本では<豚君>だ。
 しかし「豚君」は、ほんの少しだけじぶんの差異の表現を成し遂げたあと、メインの登場人物である女性たちによって呑み込まれてしう。でも、ほんとうは逆で<豚君>は孤立の光芒を放ちながら舞台に立ち、そのままのかたちで、なにもなかったように舞台から消えてゆくのがいちばんいいに決まっているのだ。だが、わたしの工房には決定的な欠如があり、そこへ行くことがまだできないでいる。
 
 なぜ、わたしは、そんなふうに舞台の片隅に存在する登場人物たちを描き出したいと思うようになったのだろうか、実はよくじぶんでもわかっていない。ただ、現在の渦中に生きている多くの庶衆の人びとが、社会や時代の変遷に翻弄されながらも無意識に対応しているように、芝居の表現もまた社会や時代の風俗から対応を余儀なくされてきているとしかいいようがない。しかし、それではなにも判ったことにも、語ったことにはならない。
 
 じぶんで、いま、少しずつ読み進めているのは、というより難しすぎて遅々として進まないのだが、古代から現在まで脈々と生き続けている<短歌謡=和歌>についての変遷の歴史だ。初期歌謡から現在の短歌は、時代の変遷とともに、大きな地殻変動を何度も体験している。
 極々僅かな範囲で詠みえた江戸期の歌人の橘曙覧の和歌は判りやすくて好きだ。
 
   たのしみはまれに魚煮て児等皆がうましうましといひて食う時
橘曙覧(たちばな あけみ)『独楽吟(どくらくぎん)』より  

 現在の歌人の詠んだ短歌で、不思議な感じを与えてもらった短歌は、
 
   鴎外を垂直に引き込みたるは百年前の此処の夕闇 (「此処」はベルリンのこと)
(岡井隆『神の仕事場』より)  

 短歌は、なぜ、これほどまでに変わってしまったのかと思わせるものをもっているのだろうか。
 短歌に詠み込まれた景観や事物の違い、歌学の違い、資質の違い、それらを超えてなお違ってしまったものがあるのだとしたら、それは、なんなのだろうか、わたしにはまったくわからない。ただ短歌変遷の手掛かりをゆっくりじぶんの時間で訊ね重ねることで、幾分かでも芝居の変遷のイメージが遠くほうに垣間見えてくるのではないか、微かにそう信じようとしている。未知への手探りの作業は、過去への手探りの作業と同義となる。
 現在の多様な社会や風俗の変遷から表現が必然的に受けざるをえなかった対応の仕方は、過去の時代の社会や風俗が表現に与えた変化の変遷をみることと同じだと思う。
 現在の短歌の「新しい波」ということを、聴いてみたい。
 
 
 
        

 
   母上はもの言はざれど今宵なる机上にころぶ桜桃ひとつ
(小池光『バルサの翼』)      にくしみとならぬ愛なし万緑の底しずかなる蟻の行列
(伊藤一彦『瞑鳥記』)      海底の戦艦大和 ふるへつつ合歓は花咲く空のまにまに
(小池光『バルサの翼』)  
 
 
 これもまた新しい短歌の表現の不明な部分の形にはちがいない。わたしが読むと、この不明さは上句と下句とがどうしてもつながらないところからきているとおもえる。だが作者の方は二つの考え方ができるはずだ。ひとつは上句と下句は連結感があってつながっているから短歌的な表現として成り立っていると考えられている。もうひとつは短歌的な常識からはつながっていない上句と下句だが、この常識は、短歌的な特性が解体してゆく過程でこの上句と下句はつながっているとみなせるところまで、短歌は表現を拡大してゆかなくてはならないとする考え方だ。いいかえれば任意的であること、偶然であることのつながり方もまた短歌的な連結のひとつとして認識し、短歌的な定型の表現域を拡大してみせることだ。わたしには新しい短歌の世代は一様にこの問題に当面しているような気がする。
 
 
 常識的にいえば、じぶんの母親が物を言わずに沈黙していることと、その夜のときに机上に桜桃の実がひとつころんでいることとは連結しない。沈黙している母親の姿と机の上にころがっている桜桃の実が、まったく偶然あったということを、作者は短歌定型に収拾している。これは作者のなかに偶然短歌的な表現の視線が、二つの関わりのない物に集中されたときには、その二つの物は連結されるという理念がなければ不可能におもえる。 
 二首目もおなじで、ついに憎悪に変らないような愛はないとおもっているとき、いちめん緑の樹々や草むらに蟻が列をつくって移動しているのを視ていた。その偶然性のほかには、上句と下句を連結させる根拠はないとおもえる。ではこの<偶然の事物はかならず短歌的表現のなかで連結する>という原則はどこからきたのだろうか。わたしには個々の作者を共通に訪れている短歌的な声調の散文化への表現史的な必然からきているとかんがえるのがいいような気がする。
 
 海底に戦艦大和は沖縄沖の海戦で撃沈されて沈んでいる。それは認知であっても、想像的なイメージであってもいい。そのことと下句になっている合歓の花が空のしたで風にふるえるように咲いていることとは、何の関わりもないのだが、新しい世代の歌人たちは一様に偶然、短歌的視線域に存在している対象は関わりがないものでも連結されるとかんがえている。別の言い方をすれば、意図的にかあるいは不可避的にか散文化への刺戟を加えられて短歌的な表現を<偶然の連結>ともいうべき方向に拡張する模索を強いられているとおもえる。現在のところでそれほど巧くいっているとはおもえないが、この徒労をともなう試みに赴かなければ、新しい波を打ちかえせないかぎり、宿命として避けるわけにいかないのではないか。
(★ 青の彩色は菅間)   ★ 吉本隆明著『写生の物語』2000年講談社刊。「短歌の新しい波 4」より抜粋させていただきました。

   この稿、続く。
 
 
        
 
 
 
参考に、菅間馬鈴薯堂のHPの『短歌の新しい波 4』の頁へ
 
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