日付:2021年10月 

  <声>と<言葉>のわからなさ (1)

 
 

★ 39回公演「さがしものはなんですか」、左:大間剛志。右:津田タカシゲ。   

 
 
 39回公演「さがしものはなんですか」の稽古場で、いまさらのように俳優さんたちの身体から繰り出される<身振り>や<声>音にわたしは大変に驚かされ、戸惑いを覚えた。白紙に書き込まれている無声の<声>と、実際に稽古場の舞台での俳優さんたちが発する<声>とはまったく違うもので、俳優さんから思い切り背中を蹴っ飛ばされたような気持ちになった。いままでオレは<声>と<言葉>の違いやわからなさについて、なにを考えてきたんだろうか。
 その驚きを要約してみれば、<声>は俳優さんにとって彼ら彼女らの<顔>と同じようにもう一つの<顔>で、それも彼ら・彼女ら自身の生命を削るようにして彼ら・彼女ら自身の手で作り上げた秘密の工房で培養してきた第二の<顔>なんだという一般的な認識論でやり過ごしてきた。いままでいい加減にしてきたことが、いまになって、もうひとつの主題として目前に浮かび上がってきたといったほうが、真実にちかい。
 
 わたしは、<声>や<言葉>の専門家ではないまったくの素人だ。<声>や<言葉>をそれ自体として抜き出しその本質を尋ねたきたことは一度もない。けれども、毎日のように日本語を喋り、日本語を聴きながら生活をなんとか70年続けてやってきた。日本語の<言葉>や声に学問的に無知であるけれども(我が家の女房殿に、あなたの「助詞」というものに対する考え方は根本的に間違っている、と毎日のように怒られているが、わたしは実に「助詞」の使い方が苦手なのだ)この国に生まれ、わたしと同じように生活を営んでいる人と同程度にとはいえないかもしれないが、日本語の様々な不可思議な表現に驚いたり、日本語の独特な表現を無意識に真似たりしてきて、日本語にはそれなりに日々の生活で馴致してきたつもりだ。じぶんの生活の地平の水準でという限定つきではがあるが、いままでそのままに放置してきた主題に少しでも踏み込んでみたい。
 
 「八景◇街中の唱い人(1)」の場面を演じた大間剛志さんと津田タカシゲさんの二人の掛け合いのなかの台詞で大間剛志さんの「 ……何かを持ってる振りをするんじゃない!」という台詞は、稽古の終盤になってきてからなぜか心に迫ってくるものがあった。俳優の演技に感動したのを憶えている。その謎をまず解きたかった。
 この感動はどこからやってくるのだろうか。
 この感動は、台詞が内在する意味から直接やってくるものではなく、言葉の意味の外部、彼じしん(俳優)の造形したリズム・テンポ・抑揚の強弱、空間把握と表出力とがあいまってメロディとなって<声>に粘りついてやってくるものだ。粘り着いたものは、俳優の深い主情である、といういい方しかわたしにはできない。
 
 わたしのこういういい方にはもちろんアンチョコがある。困ったときに手にしては眺める本で、とても難しい文章のように思えるが、何回か繰り返し読んでいると理解できる文章に思えてくる箇所がある。あげてみる。

 詩は韻文で書かれることを本質的な要件とする。そうして韻文の様式はまさに韻律を有することを要件とし、この感覚的側面における区分が音や言葉に強制を加えることをもってはじめて成立する。これによってかような材料は同時に感覚的領域から離脱したものとなる。韻文を聴く人には、それが通常の意識において気ままに語られたものとは別種のものなのだということがすぐにわかる。それに固有の効果は内容にあるのではなく、対象面にあるのではなくて、これにつけられた規定にあるのであり、この規定は内容にではなくてもっぱら主観に帰属することを直接に明示している(傍点-吉本)ここに存する統一性・均等性によってこそ、規則的な形式は自我性に諧和するひびきを発するのである。
ヘーゲルの『美学(第一巻の中、竹内敏雄)』
 見事なのは、意味としての言語も、価値としての言語も、対他ー対自的ものであるが、韻律としての言語が内容とも対象とも異なった「主観に帰属するもの」、いいかえれば意識それ自体に粘りついてはなれないもの、完全に対象的に固定化されないものとみている点である。
吉本隆明『言語にとって美とはなにか・上巻p108・角川文庫』

 大間剛志さんと津田タカシゲさんは、台詞の<声>一つで、劇中の登場人物という物語の枠組みから抜け出して、舞台に立っていながら、街なかで<現に、いま>生きて歩いている人々の世界へ瞬時に移行してしまったような目眩をわたしは感じた。わたしはその二人の瞬時の移行に驚いていたのだと思う。虚構の舞台と現実世界とを意識的に混同した(瞬時に、二つの世界に足をかける)この矛盾に。たぶん、そこに<現在>は佇んでいるような気がする。俗っぽく昔風にいえば<声>をじぶんの身体に当てるといういい方になってしまうのかもしれないが、いまのわたしの好きないい方なら芝居を地べたへ近づけるといういい方となる。
 
 お前なら現在の芝居の課題はいまどこにあるのかと問われたら、その一つは、舞台(虚構)の人である俳優さんの願い、実は観客も俳優さんと同じようなことを望んでいて、物語の枠組みが解体されて、瞬間でもいいから俳優さんと観客のみなさんが棲んでいる地平は、実は同一であるという錯覚、その(地べた)へ俳優さんも観客のみなさんも走り出して<声>を挙げることを願っているのではないだろうか。わたしにはそう思えて仕方がない。
 
 では、走り出してどこへ行けるというのか? もちろんは、それはだれにも解らない。
 
 
 
           
 
 
この稿、続く。
 
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