日付:2021年3月 

  ボタタナエラーの『ちきゅうがいっぱい』への感想

 

写真提供:ボタタナエラー。『ちきゅうがいっぱい』の舞台写真  

 

 
   ( 1 ) 任意な芝居の作り方
 
 
 故吉本隆明さんの『写生の物語』の「短歌の新しい波 2」は、「短歌の表現が自由の感じを与えないのはどうしてか、また自由の感じを与えるのはどうしてか」という言葉ではじまる。その言葉を真似させてもらえば、今回見たボタタナエラーの村田与志行さんの芝居『ちきゅうがいっぱい』の冒頭部分は、一観客としてはとても自由な感じを与えてもらった。ボタタナエラーは、芝居の入り口を大胆に拡げて平易で見やすい芝居を作りあげていた。
 
 以前に、ボタタナエラーの芝居を何本か観劇しているが、今回の芝居はボタタナエラーの芝居作りに特に飛躍を感じた。その飛躍について、解らないところはわからないままにして、一観客として二つほど抱いた感想を述べてみたい。
 
 第一の感じたことは、台本、台詞の書き方にしても村田の創意工夫あって、台詞に散文調と大胆な簡略化を行っていたことだ。
 二つめは、村田自身によって構想され設定された芝居の主題を、稽古場で彼や俳優さんたちによる処理(解体)の仕方が大きく深化していたことだ。<書かれた劇>と<演じられる劇>との位相差の処理と展開は、芝居作りの過程での大難題だが、ボタタナエラーは今回の稽古場で固有な処理方法の端緒をみつけたのだろう。
 
 村田与志行さんの芝居の作り方の特徴は、わたしの芝居の作り方ととてもよく似ていて(この意見は、わたしが勝手にそんな風に感じているだけで、そんなことを彼にいえば「それは違う」と怒られるかもしれないが)大雑把にいえば、わたしも彼も任意芝居を作っているのだと思う。
 任意芝居は、文字通り思いついたイメージを任意に書いているうち、その場面に流れとかリズムやテンポ、雰囲気が出てきて、その継続で次の場面を書いたり、まったく異質な雰囲気で書いたしてゆく。大切なことは、書いているじぶんが楽しい場面を描けているかということだけだ。場面どうしの接続を無理に芝居内容の意味性で繋げることはしない。意味で無理に繋げると結果として稽古場で俳優さんたちを困らせるだけだからだ。
 そんな具合で五~六個ほどの任意の場面ができてくると、それらの場面のなかに共通のじぶんが表現したいイメージや雰囲気を取り出し、結節点を仮構し、連結し、構成し、ああ、これを作品にしようと思えたとき、作品となってゆく。これが任意芝居の構成の仕方の大雑把な作り方だ。
 
 任意芝居の作り方にはルールはないから、なにやっても自由なわけで、どんなものをもってきてもいい。TVだろうが映画だろうが、アニメだろうが、小説、エッセイ、詩、瞬間の思いつき、街頭語、社会的な事件、様々なメディア映像等の達成から、じぶんが「これは面白い」と感じたものを採り入れて小さな場面をいくつか描き、作品にしてゆく。わたしはそんな感じで長い間好き勝手に芝居を作ってきた。お客さんからは、わたしの出鱈目さと破廉恥さをプシュウド(pseudo)性を含んでいる疑似芝居で「あれは、駄菓子屋の店先芝居だ。雑多で安手な駄菓子が店先に所狭しと飾られているだけだ」という言葉で呼ばれていた。でも「駄菓子屋の店先芝居」という命名にいつしか愛着のようなものをもつようになり、いまでもそんな「駄菓子屋の店先芝居」作りを愉しんでいる。
 
 任意芝居にしろ、ま、それなりにちゃんとしたというのもおかしいが、昔ながらのアカデミックな風を装う芝居を作っている人たちでも、現在の演劇界の舞台表現の実情に窮屈さや不自由さ、単一さを本音のところでは感じていないわけはなく、どうしたら芝居に窮屈さではなく自由の感じを与えることができるのか、という芝居の概念の拡張を目指して芝居を作っていることでは同じだと思っている。
 
 
 
   ( 2 ) 冒頭の場面から
 
 
 『ちきゅうがいっぱい』の幕開けの場面は、とても不思議な感じのした場面だったので、そこから入ってみたい。

  1 タンブレリ
 
         早朝。
         ボブ・マーリー「ワン・ラヴ」が流れる。
         ハシヅメ(スコットランドの民族衣装)、ゴトウが出てくる。
         手に、タンバリン。
 二 人   ようこそ。(客席に一礼)
 ハシヅメ  タンブレリというスポーツを知ってますか? タンバリンを使て、
       バドミントンのシャトルを打ち合います。
 ゴトウ   ご存じないかな。
 ハシヅメ  ルールはバドミントンと同じですが、サーブする際、タンバリンが
       胸の高さより上になってはいけません。つまり、アンダーサーブで。
         (ゴトウに)ヘイ!
 ゴトウ   タンブレリ!
         ハシヅメ、サーブする。
         二人、シャトルを打ち合う。
         ミハラ、タザキが出てくる。(夜勤明けの仕事帰り)
 ミハラ   やってますね。
 ハシヅメ  おかえり。
 ゴトウ   お疲れさま。
 ミハラ   昨日話した、タザキくんです。
 タザキ   はじめまして。
 ハシヅメ  ああ。
 ゴトウ   どうも。
 ハシヅメ  住むとこ探してんの?
 タザキ   はい。
 ゴトウ   いいよ、ここ。まず家賃。
 ハシヅメ  激安。
 タザキ   はい。
 ゴトウ   この辺のシェアハウスで一番安い。
 タザキ   ですよね。
 ミハラ   決めちゃえば。
 タザキ   そうするかな。
 ミハラ   うん。
 タザキ   じゃあ多分、お世話になります。
 ハシヅメ  お。
 ゴトウ   そう。じゃあ、よろしくってことで。
       タザキもタンバリンを渡され、
 タザキ   え?
 ハシヅメ  ヘイ!
 ゴトウ   タンブレリ!
         四人でタンブレリ。

 この『ちきゅうがいっぱい』の冒頭の場面は、とても不思議な感じで、実はなんだかよく解らないっていうのがわたしの本音だが、でも、それは、わたしが、芝居を意味で見てやろうとするからで、舞台で現に行われている俳優さんの演技表現が醸し出すリズムやテンポ、表情や雰囲気の流れを手放しで見ていると、子供の頃、電灯提灯の灯りでいっぱいな夜店で買って食べた綿飴みたいな芝居で、口の中に入れると開放感がふわぁっと拡がるが、綿飴はすぐに溶けてしまうが甘さだけが口に残る。そんな感じの開けっ拡げの幕開けだった。
 
 しかし、この冒頭の、俳優の登場のさせ方とはじめの台詞の四、五行は、いくら任意芝居といっても、基本的にはルール違反ではないのか。この書き出しは、漫才師さんが舞台袖から出てきて、第一声をお客さんへ「本日は、ご来場ありがとうございます」みたいなものと同じではないかと疑問をもったことも付け加えておくが、観劇実感に即していえば、俳優の第一声の瞬間のたじろぎはすぐに消え、「ええっ」と驚きながら、芝居へスーッと素直に惹き込まれて入っていけたのも事実だ。
 俳優の第一声と「タンブレリ」のたわいもない遊技、「昨日話した、タザキくんです」「はじめまして」「ああ」「どうも」「住むとこ探してんの?」「はい」「いいよ、ここ。まず家賃」「激安」、これらの短い台詞のいくつかのやりとりで、お客さんをいきなり話題の中心へ惹き込んでゆく雰囲気作りは、ちょっとすごいと唸った。
 
 近代劇って普通は、はじめは登場人物の紹介をしたり、相互の関係の説明の場面を作ったりで、要するにお客さんを玄関から長い廊下を案内してやっと母屋へ迎入れ、そこでおもむろに本題へ入る。それがセオリーだ。つまり日常生活の秩序や道理の順序化の作業を経て進行する。村田さんと制作者たちはこれを壊していた。極端な簡略化と散文化の台詞の連打で、お客さんをいわば「いきなり佳境へ連れ込んで」しまっている。そして「住むとこ探してんの?」の前後の台詞から、この芝居はどんどん敷居を低くして、地べたへ近づいていき、芝居は見やすくなってゆく。
 
 村田は、客席で座っているお客さんへ、<舞台で演じられている意味や遊びのイメージをまず大雑把に把んでいただき、把んだ瞬間からそれらを気軽に捨てて、次の意味やイメージの到来を坐って待っているだけでボタタナエラーはOKなんですよ>という無言のシグナルを送り続けていて<舞台上での演技表現の映像や聞こえてくる台詞の聴覚像を、頭のなかでいちいち吟味する必要なんてちっともないんです>という雰囲気作りに成功している。何か、キツネにつままれてるっていうか、誤魔化されてるんじゃないかなって疑心暗鬼になってくるんだけどね。
 
 冒頭場面の自由さと開放感が、どこからやってくるのか、わたしも自由にいってみたい。
 わたしには、村田や俳優さんたちによって稽古場のなかで主題の否定・解体が納得の上で行われているからだと思われる。冒頭場面を肩肘を張って上向的に頑張って(いい芝居に)仕上げようとする意識が、ごく普通の人々(一般庶民の普段着)の生活反応の自然な無邪気さによって下降的に解体されて、「これは、これで、面白いんだよ」という作り手たちの共同の認識が、舞台に自由さと開放感を与えている。彼らは芝居を愉しんだのだと思う。
 
 
 
   ( 3 ) 散文化と大胆な簡略化、そして暗示
 
 
 それともう一つの感想だが、冒頭の場面で驚いたことがある。芝居を見ているときはまったく気がつかなかったが、また観劇後もこういう台詞の場面があったってことさえ思い出せもしなかった。台本を読ませてもらってはじめて「ヘェー」ってこんな台詞の場面が書いてあったんだと気がついた。それは冒頭部の結末にあり、不思議な台詞で、やはり村田が台詞の散文化と大胆な簡略化を自覚的にやっていて、今回の芝居の特徴的な場面となっている。
 その場面の台詞をいっさい変更せずに、登場人物の名前をすべて消して、ちょっと悪戯してみた。引用してみる。

   なんかもっと健全で、やりがいのある仕事したいよね。
   誠実なね。
   誠実な仕事なんかどこにもないよ。誠実な呼吸や、誠実な小便がど
   こにもないように。
   ハルキ?
   「羊をめぐる冒険」。
   先輩、お仕事は?
   堅い仕事だよね
   へえ
   いや実は…
   え?
   辞めちゃって
   え、いつ?
   先週
   なんで? がんばってたのに
   職場行くと、絶対お腹痛くなっちゃって。もう限界
   は?
   俺、痛さに弱いから
   分かります。痛いって気力をゼロにする
   辞めてスッキリした。いますごい元気
   たしかに今日、いい顔してる
   そう?
   うん
   セコいことばっか言われてさ、視野が狭くなっちゃうんだよ
   俺を社会にはめ込むなと
   そう
   カッコいいな
   でも、これからどうすんの?
   どうしよう
   ヤバいじゃん
   ヤバいんだよ、でも、スッキリしてる
   なんかいい仕事ないすかね? 俺らもさ、このままじゃね
   終わっちゃう
   やりがいのあるいい仕事、なんかないかな?
   考えましょう
   うん

 (1) 常識的に考えて、この台詞の意味内容に現実感(リアリティ)は無いと思う。あるいは現実感(リアリティ)が存在するといっても同じなことだ。話されている内容と話している登場人物たちが心の内に隠している本心とがあまりにかけ離れているからだ。一方で、わたしたちは、前向きな明るい笑顔を装いながらこんな感じの会話をどこかで楽しそうに演じて喋ってしまう存在でもある。わたしの勝手な空想を許してもらえば、(作者の影の)きっと独り言の場面だと思う。
 (2) この台詞群はまた、この構成作品の主題を暗示している箇所でもある。
 
 黙読は読者の頭のなかに声(音)を生み出す。確かに、何人分かの声は聞こえてくるような気もするが、わたしにはどうしても独り言のように思えてならい。そんな思いで悪戯させていただいた。
 この独り言の主は、登場人物のだれだか(作者=の影)で、夜中の自室の小さなアパートで食べ終わったカップラーメンとかポテトチップの空き箱が散らかっている部屋で、壁に向かって現実は八方塞がりになっているのに、一人で明るく呟きながら虚空を見詰めている、そんな気がする。
 二番目は、この台詞群には、村田が仕込んだ謎がある。難しい言葉はなにひとつ使われていない平明な散文体なのだが、この言葉たちの全体がひとつのかたまりとなって、なにか巨きなものを暗示しようとしている。
 
 たまたま偶然のように、「ほぼ日刊イトイ新聞」の「吉本隆明183の講演」の『寺山修司を語る~物語性のなかのメタファー』を聴いていたら、その講演終了後に吉本さんへの観客からの質問のコーナーの企画が設けられていて、その「質疑応答」部分を引用させてもらう。

吉本隆明   都会というと東京が一番典型的なところですけど、東京というのも寺山(修司)さんが田園を逃れ(て)家を捨てて親兄弟を捨てて、東京に出て来たといった時の東京と、今とはまた一サイクル違っちゃって、もうここには本来的にいえば人が住めないというか、人が住むところとしての東京・都会みたいなところは段々滅びつつあって、大都会というところは遊ぶところっていうかビジネスというところとか、何か食べるところとか、或いは娯楽するところ(?)という意味合いは持つけど、少なくとも住み処としての都会という意味合いは段々減じつつあるというところに都市というのは追い詰められて、そういう段階に入っちゃってるような気がするんですよね。
 ★ 「ほぼ日刊イトイ新聞」の「吉本隆明183の講演」から抜粋・引用させていただきました。

 故吉本さんの講演の日時は1993年4月10日となっているから現在の大都会は、ほぼ約30年後ということになる。村田与志行のボタタナエラーの『ちきゅうがいっぱい』の作者や演出、俳優さんたちの芝居作りの意識的、無意識的な大まかな動機(モチーフ)や主題は、吉本さんが語っている大都会の30年後を生きている普通の40代の独身男性で、村上春樹の小説の主人公のようには格好良く生きられないわたしたちの生活上の逸話を芝居に仕上げたいと思ったのではないだろうか。
 だが、当のご本人たちは、そんな主題性にちっとも固執している風はなく、どうしたら台詞を楽しく喋ることができるかの工夫に夢中になっているように映った。それでいいと思える。
 
 (わたしたちがほんとうに知りたい、見たいと願っているのは、作品の主題を探り当てることではなく、作品の主題を作りだした作者や制作者たちが、じぶんたちの手で作りだした主題を稽古場で真っ向から解体し、彼ら自身の手仕事によって稽古場で再構成してゆく彼らじしんの心の揺れ動きに触れたいのだ。その主題の描かれ方を見たいのだ。そこに作品の、あるいはその小集団の個性と呼ばれる生命や作品の<現在性>が宿っているし、彼らの試行錯誤の意図が存在するからだ。)
 
 
 
   ( 4 ) 主題の処理の仕方の背景

 表現には、その作品(表現者)が「世の中をどう捉え、対応しているか」を表す一面があると思うのですが、「いまの世の中の解らなさ」に対抗するには、僕たちのやることも、よくわからないことを、やるしかなく、でもその方向性は、晴れやかで風通しのよさそうな所へ向かえたらと、稽古中に考えたりしました。
 ★ ボタタナエラー『ちきゅうがいっぱい』の公演パンフレットより村田与志行。

 村田は、ここで主題の処理の仕方について述べている。彼はじぶんが構想した芝居の暗い主題性を、稽古場のなかで一度対象化し、そして『その方向性は、晴れやかで風通しのよさそうな所へ向かえたら』と。もちろん、そんな都合のよい『晴れやかで風通しのよさそうな所』など現在の社会を探してもどこにもないから、村田じしんが探し、俳優と観客を誘導するしかない。
 芝居を見に来るお客さんも、芝居の作り手たちも、ほぼ同じような『風通し』の悪い生活を大都会で営んでる。だとするとお客さんが見たいのは、登場人物たちが『風通し』の悪い生活をやりくりしながら、どんな抜け道を作って閉塞された世界から出て行くのか、出られないとしても、だ。それなら完結感のある芝居になる。
 
 村田与志行は、淡い演出を試みていたのではないか。台詞は右耳から入って瞬時に左耳から消えてしまってもかわない、というような。
「なんかもっと健全で、やりがいのある仕事したいよね」、「誠実なね」、「誠実な仕事なんかどこにもないよ」、「誠実な呼吸や、誠実な小便がどこにもないように」……「なんかいい仕事ないすかね? 俺らもさ、このままじゃね」、「終わっちゃう」と登場人物たちが明るい声で喋っている台詞の意味内容は、作者にとっても、観客にとっても、だれにとってもいまのところ正体の把めない、半覚醒の状態でしか認識できない空虚で、その半覚醒の空虚の由来がわからないまま観客へ手渡そうとしたのではないか。そういう処理の仕方しかないのではないだろうか。
 
 村田与志行は、芝居を見に来てくださるお客さんも、作り手たちも、実はもうまったく似たり寄ったりの生活環境の地平に立っていて、両者はいつでも置換(交換)可能だってことが、いま(現在)ということで、今日の観客は明日には舞台に立っているかもしれない、ということを手探りで認識してきたのだと思う。
 
 
 
   ( 5 ) 恣意的な余分な感想 --- 主題の変容へ
 
 
 最後に、恣意的な余分な感想がひとつある。
 なぜか、作者の書いた冒頭の最後の場面に<生活の匂い>がしないことだ。この場面は、作者によりソフィスティケート(洗練されてしゃれている、都会的であること=sophisticate)されたものだから、という応えが返ってくるような気がする。そんな感じもするが、それは違うような気がする。それではこの場面の意味と行方へは量れない気がする。
 
 もともと風俗の情景に季節感や生活感を求めるのは無理なことだ。風俗の情景は意識的に季節感や生活感を排除するのが鉄則だからだ。生活感といった場合も、わたしの祖父や祖母の世代には「盆暮れ、正月、花見、肉親、親族の命日」等のハレとケの生活様式や生活の順序、季節の訪れは多少残っていたかもしれないが、わたしの世代には、少なくともわたしの現在の生活では皆無に限りなく近づいていると思う。
 
 作者の冒頭の最後の場面を読んでいると、ひと言ひと言の短いやりとりが極小の波形を作り、意味以外の意味を風俗の情景として醸し出していて、そのは崩れないリズムをもっている。
 だが、そのリズムが一瞬間だけ崩れかける台詞がある。それは「職場行くと、絶対お腹痛くなっちゃって。もう限界」という具象的な台詞のひと齣で、作者じしんの私感情を登場人物の一人に与え、それを支点にして会話の転調を試みたいと思っているところだ。作者もそのちらの方向へ向かいたい気持ちの揺れ動きがあるようにも感じられる。だが、そうしてしまえば、この台詞群の全体は主題から無限に遠ざかってしまうことを意味してしまう。「セコいことばっか言われてさ、視野が狭くなっちゃうんだよ」、「俺を社会にはめ込むなと」、「そう」、という台詞で、作者は芝居を元の情景のリズムへ戻している。なぜ、そうしたのだろうか。
 
 正直にいって、これは、わたしの恣意的で不必要な解釈に過ぎないが、ほんの僅かなこの数行の台詞のうちに現在の芝居がかかえている袋小路が見え隠れしていると思う。
 作者によって風俗の情景のなかに囲い込まれた登場人物たちは、作者じしんも含めて、その囲い込みから逃げ出して、じぶんの日常生活のなかでの吐息のような本音を喋りたいと考えているように思える。けれどもそんな憩いの瞬間の場所は、表現としての芝居の器のなかで見つけ出し、作り出さなければならない。それは、作者にも登場人物たちにも不可能で、現在のだれもが想定さえできない未知なところに存在するのかもしれない。あるいは、そんな場所はもともと願望として存在するだけで、芝居のなかに存在させることが不可能な場所なのかもしれない。
 
 ここで何を問題にしたいのかといえば、芝居(演劇)という形式は、どんな問題を主題として積極的に採り入れ、どんな主題には消極的であったのか、ということだ。
 芝居(演劇)という表現の器(形式)は、台本に書かれた(意識化された)大文字の主題性を盛ることはできても、わたしたちの生活のなかで起伏する小さな喜怒哀楽のありさまを盛ることはできないのではないか。真逆にいってみる。わたしたちの生活のひと齣を芝居にしようと試みるとき、わたしたちは大文字の主題という概念から無限に遠ざかざるをえないのではないか。
 この問いは、芝居という表現の器に対するわたしたちの最大の疑心のひとつだ。少なくともわたしには、だ。
 
 ソフトな言い方にかえてみる。いつの頃からかわたしたちは、わたしたちの主題という概念のとり方自体が時代の要請とずれてはじめていることにはっきりと気がついて、しかもわたしたちは思い違いの誤差の修正の試みようとする度に、動かし難い岩盤に突き当たり、わたしたちの試みは必ず跳ね返され徒労に終わってしまう。
 
 では、お前はどんな試みをしてきたのだと問われれば、大文字の主題を作り、意図的にそれを奈落の底へ隠蔽して、生活のなかで起伏する事柄を逸話へ起し、時には面白く、時には侘びしく、時には大袈裟にして、芝居らしくない芝居を作ってきただけだ。こうした徒労のなかで、迷子になっているのはわたしだけではない気がする。芝居(演劇)という表現の器は、どんなものでも包み込める不思議な風呂敷ではないのだ、そう自分に言いきかせてきた。
 
「職場行くと、絶対お腹痛くなっちゃって。もう限界」という作者が私感情を支点に解錠を試みた扉の向こうに、その継続的な展開の光景ができるとしたら、芝居はもっと活き活きとした新鮮なものになりえるのになァと思えるのだ。
 
 わたしの貧しい読書体験のなかからいえば、若い頃読んで好きになった台本のひとつに木下杢太郎(もくたろう)の『和泉屋染物店(いずみやそめものみせ)一幕。『スバル』1911年(明治44)3月号に発表』がある。いまでも好きだが、若い頃と現在の感想はだいぶ違う。わたしが高齢になった証拠なのかもしれない。わたしがいうのもおかしいが、日本の近代戯曲(芝居)の特性は、社会生活派的な主題を表芸にすることで芝居を出発させることだった。それは時代の不可避性を抱えていた。能狂言、歌舞伎、音曲、舞踊、大衆演劇から離別し、一個の独立した分野を作り出す社会的な必要があり、社会生活派的な主題を表芸とする理念は不可欠であり、それは明治期の平民社会の芝居の理念としての時代の要請とも合致するものであった。そして戦後も現在の芝居も、その表芸は遺制として継続されている。わたしには、近代国家明治の伝統的な表芸の理念はもう充分に時代の役割を果たし終えている、そう思えるのだ。
 
 この辺で、わたしたちは個別の演劇者ごとに本当に描きたいものを、じぶんの方法で、芝居に向かわなければならない時期へ徐々に追いつめられている。そうでないと、芝居は現在のなかで活き活きとした新鮮な表現にならような気がする。
 
 
 
   ( 6 ) それぞれの志向性へ
 
 
     ~ ショートショートシアターについて ~
     
     ドラマには起承転結がある。
     テーマがある
     私たちはそれが当たり前だと思う。
     しかし現実では私たちは、
     『起』だけだったり、
     『承』だけだったり、
     時には
     『結』だけを目撃することになる。
     電車の中や駅前の喫茶店や河べりの道で。
     なぜあの二人は
     泣いているのだろう。
     なぜあの人は
     同じ言葉をくり返し言ったのだろう。
     なぜこの人は
     動かずに微笑んでいるのだろう。
     意味やいきさつは計り知れないけれど、
     なぜか心をゆすぶられる瞬間を
     私は何度も目撃した。
     その瞬間の物事の
     本質を突いていると思うことさえあった。
     そしていつか、
     その光の輝く瞬間を
     ひとつにまとめるのではなく、
     バッサリ切り取った断面で
     表現したいと思いはじめていた。
      ★「普通の人々(2021年2月)」のパンフレットより天衣織女。

  ボタタナエラーの観劇から二ヶ月ぐらい経って、久しぶりに劇団青い鳥の最新作『普通の人々(2021年2月。作:天衣織女、演出:芹川藍)』を見た。この文章はパンフレットから引用させていただいた。
 わたしは、彼女たちとほぼ同年代だが、彼女たちの今回の舞台を見ていて、彼女たちの年齢による衰えを寄せつけない舞台表現の力感と絶え間のない演劇的志向に脱帽の思いを禁じ得なかった。
 だれでもがとは言えないが、天衣さんのこの文章へ込めた思いは、現在芝居を作っている者の幾らかは心の隅に隠しもっている思いではないだろうか。わたしももっているし、村田与志行ももっていると思う。
 正直にいえば、ただこの文章に書かれている「瞬間」の光景を舞台で表現化する方法を、わたしはまだわからないでいるのだ。「心をゆすぶられる瞬間」は、心のカメラのアングルの対象となりえるだろうが、それを舞台で生きている人間みたいにして動かすと、どうしても物語化が働き、とても初発に垣間見た街頭の瞬時の光景の感動からまったく異質なものになってしまう。この差異を埋めるためには採りうる方法はいまのところ二つしかない。芝居作りをやめるか、主題という概念のイメージの扱い方だけではなく芝居というイメージのあり方を根底的に組み変えるか。
 
 劇団青い鳥へのわたしが抱いている小さな夢は、遠い昔に見た彼女たちの『夏の思い出』を、70歳を過ぎている少女たちが演じる芝居だ。ぜひ見たいと思っている。
 
 
 今回のボタタナエラーの『ちきゅうがいっぱい』について好き勝手に私的な感想をいわせていただいたが、ともかくもボタタナエラーの飛躍を感じた芝居だった。
 
 
 
   この稿、了。
 
 
 
        
 
 
 ▼ 以下の故吉本隆明さんの文章を参考にさせていただきました。
 
『写生の物語』吉本隆明氏著。講談社刊:2000年6月。
 
「短歌の新しい波 (1)」
「短歌の新しい波 (2)」
「短歌の新しい波 (3)」
「短歌の新しい波 (4)」
ほぼ日刊イトイ新聞:吉本隆明講演『A152(T)寺山修司を語る-物語性のなかのメタファー』の頁へ
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