2020年7月 

  じぶんのことでせいいっぱい・リポート (2)

 

「じぶんのことでせいいっぱい」の左:村田与志行、右:稲川実代子。江古田One's studioにて。  

 

 
 「……歌謡の起源の形をもとめることは、それほど魅力的であろうか。わたしはうまい言葉でいうことができないが、魅力があるとすれぼ、〈詩〉は神話の編成時代にはるかに先行するというモチーフを充たすことである。また、それを確めるために神話の地の文ときりはたすとき、以外にもきわめて平凡な、それでいて思いがけない古歌謡がすがたをあらわす。それは、とうてい名跡あるものの作ではなかった。村落や海や山あたりに住む何でもない人々が、いつの間にか時間に淘汰された歌謡をもったというべきである。」
★吉本隆明『初期歌謡論』「歌謡の祖形」より  
 
 
 じぶんは「短歌」のことがまったくわからない、そのことが逆に「短歌」に興味をもちはじめる契機となって、「短歌」の本を読んできた。読み進めていくうちに、なぜ人は「歌謡(うた)」を歌うのだろうかという疑問が自然に湧いてでてきた。それはどのような様式とか形式をもった歌なのだろうか、と。もし、この課題が少しでもじぶんの心のなかで溶けてくれれば「芝居」のことも少しは溶けるのではないか、そう思っている。芝居のこともまた、「短歌」同様にわたしにはよく判っていないのだ。
 
 
 このリポートの文章は、故吉本隆明さんの難解な少し長い文章を引用になっているが、何回か読めばそれほど難解ではなく、なんとなく書かれていることが素直に心に入ってきて、うん、これ解るみたいな感じがしてくるもので、台本を書くときや、演技の初発のイメージのきっかけの発想と、どこか似ているのではないかと思ってあげてみた。この小文章を、『短歌』の勉強というのではなく、わたしたち(作者・演出・俳優)の意識・無意識の芝居の表現についての展開を考えていこうとする途次に生じてくる心の揺れ動きやその展開の方法についての、一瞬の緩和剤になるのではないか。そう考えてUpしてみた。時間のあるときに読んでみて下さい。  
 
 
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 藤原公任(ふじわら の きんとう。平安時代中期の公卿・歌人。『和漢朗詠集』の撰者)は、「新撰髄脳」に「歌のありさま三十一字惣じて五句あり。上の三句をば本といひ、下の二句をば末といふ。」とか「古の人多く本に歌枕をおきて末に思ふ心をあらはす。」という言葉がみえている。このばあいの「歌枕」とは、事物についての客観的た描写というほどの意味に、うけとるのがよさそうだ。すると「枕」という言葉は〈枕詞〉という意味ではなく、心を表現するための〈前提〉と広義にかんがえられてよい。あるいは歌全体の〈支え〉と解してもよい。この〈支え〉は、〈もの〉でも〈こと〉でもよいがどうしても具象的でなければならなかった。そのあとにつづくものが眼に見えない〈心〉をあらわすかぎり、〈支え〉は〈心〉を眼に見えるものに繋げる働きがなければ、歌の〈支え〉とはならなかったのである。公任の「新撰髄脳」の成立を寛弘七年(一〇一〇)として、すでにこの時期には〈歌〉が事物(主として自然物)を描写しながら、何らかの形でその描写を〈心〉の表現に結びつけて成り立つことが、直感的に把まれていた。これは歌の由来を考えてみればうなずける。『記』『紀』の初期の歌謡を構成的にみてゆけば、〈もの〉や〈こと〉を描写する詩句、スタンザ(詩の「連」)としてあって、これに構造的に同型な心をのべた詩句が前置または後置されて、はじめて歌は全体をととのえている。この骨格は『万葉集』の初期の短歌謡(五・七・五・七・七形式)でもひきつづきまもられている。公任の「髄脳」は、その時代からすでに三世紀ほど隔たっているから「古の人」の歌のことだとおもわれただろうが、伝本や実作の流れからそうかんがえる根拠はあった。
 
 なぜ〈歌〉は直裁に〈心〉の表現で始まり〈心〉の表現で終るところに成立しなかったのだろうか? なぜ自然(事物)をまず人間化して〈心〉のほうに引き寄せ、つぎに〈心〉の表現と結びつけるという、一見すると迂遠な方法がとられたのだろうか? 公任はそこまで思いいたったわけではない。いま、こういう疑問をもちだすとすれぼ、応えはおおよそ二つありうる。もともと歌の成立には、発生のときから事物(自然)の描写が本質的になければならないものだった、というのが、ひとつの応えである。かれらには自然もまた依り代(よりしろ)として〈心〉の一部とかんがえられていたのであった。もうひとつの応えは、古代人(あるいはもっと遡って未開人)は、〈心〉を心によって直接に表わせなかったので、まず眼に触れる事物(自然)の手ごたえからはじめて、しだいにじぶんの〈心〉の表わし方を納得してゆくよりほかなかった、とかんがえることである。やや後者に近いところに折口信夫はちかづいていった。
 
 
 だが、今一方に、發想法の上から來る理由がある。其は、古代の律文が豫め計畫を以て發想せられるのではなく、行き当たりばったりに語をつけて、或長さの文章をはこぶうちに、氣分が統一し、主題に到着すると言つた態度のものばかりであつた事から起る。目のあたりにあるものは、或感覚に觸れるものからまづ語を起して、決して豫期を以てする表現ではなかつたのである。
 
   神風の 伊勢の海の大石(おひし)に 這ひ廻(もとほ)ろふ細螺(しただみ)の
   い這(は)ひ廻り 伐ちてしやまむ
(神武天皇-記)    
 主題の「伐ちてしやまむ」に達する爲に、修辞救果を豫想して、細螺(シタダミ)の様を序歌にしたのではなく、伊勢の海を言ひ、海岸の巖を言ふ中に「はひ廻(モトホ)ろふ」と言ふ、主題に接近した文句に逢着した處から、急転直下して「いはひもとほる」動作を自分等の中に見出し、そこから「伐ちてし止まむ」に到著したのである。
★折口信夫「叙景詩の襲生」全集第一巻所収  
 
 
 あと幾つかの歌が例として示されているが、主旨を理解するのにはこれだけで充分である。触目の事物をあげつらっているうちに〈心〉の表現に到達するという発想法は、「氣分が統一」するために不可欠であり、またやむをえないものだとみなされている。公任のいう「上の三句をば本といひ」とか「古の人多く本に歌枕をおきて」の意味は、少くとも触目の事物(自然物)をあげつらうことが歌にとって本質的なものであるという、もう一つの解釈をゆるすことはうたがいない。「本」というのはかんがえ方によっては、はじめというより重要さという意味をふくめることができる。すると、触目やの事物やききつたえられた事物から歌を起こすことは不可欠であったとみなされる。そこで歌は、まず客観的な事物(自然)を表現することからはじまり、あとに〈心〉の表現がつづくという形式がひとつ定型として成立する。この定型で事物(自然)を表現である「本」の句と〈心〉の表現である「末」の句とのあいだには、質的なちがいと結びつきのがあらわれ、この〈関係〉がどういう構造をもつかに、歌の核心があったといっていい。さらに〈もの〉と〈こと〉をあらわす「本」の句を、内在的な構造としてみようとするとき、枕詞と拡張された枕詞にもたとえられた序詞の問題があらわれる。
 
 現在、詩にかかわるものが、枕詞に関心をもっことは、まずかんがえられない。どんな意味からも現在では詩から追放されてしまっているからである。遠い昔には、ある事物をさす語を、「本」の句につかったとき、かくべつ意味の流れにはかかわらないとおもえる語が、そのうえに冠せられていることがあった。後になると、慣用句のように、ある事物をさす語をつかうときには、声調をととのえるため、そのうえに特定の語を意識的に冠してつかうようになった。そしてもっと後になると意味の流れにかかわらない語として捨てられた。逆に、その無意味さが駄じゃれのようにつかわれたこともあった。これが枕詞の性格を語るすべてである。もうすこしひろく、事物を描写した「本」の句の全体をかんがえてもおなじことがあった。〈もの〉や〈こと〉を表現する「本」の句は、自然にべったりと纏わりつき、手触りでたしかめ、痛覚で身につまされるような、〈もの〉や〈こと〉の描写というよりも、むしろ自然と合一したという幻想をともなうほどに、重要な意味をもっていた。つぎにこの「本」の句は、〈こころ〉の在り方を探りあてたいための不可欠な当たりようにかんがえられる時期がやってきた。もっと後世になると「本」の句は、歌の全体のなかに四散してしまった。枕詞的なものに〈もの〉や〈こと〉の描写以上の呪力がこめられていた時期から、まったく消減してしまうまでの歌の歴史は、ある意味で、枕詞的の在り方に凝結されているといってよい。 (中略)
★吉本隆明『初期歌謡論』より「Ⅲ 歌枕論」p146    歌がふたたび経験にかえるのは、村落のどこにでもある山にかかった「月」や「雪」や、どこの里にでも咲いている「花」の景観のほうが、歌枕の名所の観最よりも美しいことに眼覚めたときであった。いいかえれば「月」や「雪」や「花」を、共同の観念ではなく個人的な観念によって歌にとり込むことができるようになってからであった。
★吉本隆明『初期歌謡論』より「Ⅲ 歌枕論」p196  

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 現在のわたしの台本の仕様などは、「質的なちがいと結びつき」の「結びつき」が描かれていない、と思う。この「結びつき」の質的な関係が描かれていなければ、作品は胸突き八丁まで歩んで行けないことは明白なことで、なんとかその峠を越えてみたいと思っている。
 
 
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