日付:2020年1月12日  

 「じぶんのことでせいいっぱい」について (1) ~

 

NHK・BS3の「刑事フォイル」。左から:ミルナー巡査部長、刑事フォイル、専属運転手のサム 

 

 
     --- はじめに ---
 
 
 ひとつの舞台作品が生まれる過程で稽古場にあらわれてくるさまざまな困難とその打開へ道のりの集団的な模索と試行は、それがどんなにその集団のなかで身を切るような模索と試行であったとしても私事の問題に過ぎない。そんな私事に関することをあえて公開するばあい、公開する主体はその公開性にどんな意味をもたせたいと考えているのだろうか。
 台本作りからはじまってさまざまな稽古を経てひとつの舞台作品へ到るじぶんたちの私事にすぎない模索と試行でも、もしかしたら他者を惹き込める同時代的な問題へ足を架けることができるのではないか。じぶんたちの稽古場での模索と試行に他者が深い関心を寄せてくれるとまではいかなくとも、読んでもらって「バカらしい」と破棄されたとしても、他者との芝居作りの課題の共有とその交感の可能性がありえるのではないか。そう考えているからに他ならない。
 
 以下の文章(『対話』)は、一年半ぶりに行った公演活動「じぶんのことでせいいっぱい」についての主観的なメモですが、切れ切れの『対話』というか『会話』の様式を採りました。長い文章を、現在のわたしに書く力量、体力、気力、忍耐力、なによりも一貫した構想力をもちえないので切れ切れの『対話』を貼り絵でも貼り合わせるような継ぎ接ぎの体裁を採らせていただきました。暑い夏に休み休み書きました。
 じぶんの心のなかではほんとうのことだと思っている話に過ぎないことに誰が真剣に耳を傾けてくれるだろうか。だれも聴いてくれるはずはない。それは誰にとっても、じぶんなりにほんとうのことだと思い込んでいる話を聴いてくれる話し相手を周囲に一人として持っていないし、聴く方もそんな時間が持てないことが現在なんだなと痛感したから書いたのかも知れない。
 わたしはただじぶんと対話したかっただけかもしれない。
 
 夏に書いた文章を冬に大幅に加筆・訂正を加えました。いままでぼんやりと思い悩んできたことを、少しだけ振り返ってみたかったんです。ぼくはもう折り返し点を過ぎていますから、ただ「書いて見たかった」というのが本音のところです。
 
 
 
   ★★★★★★★★★★★ ☆ ★★★★★★★★★★ ☆ ★★★★★★★★★★★
 
 
      1、ヒップ・ホップ・ダンス
 
 
   § 1  イングランドの南部の海沿いの町ヘイスティングス
 
 
 それはいきなりの夢だった。
 なぜか、わたしは警察署の取調室に坐らされてた。
 第二次世界大戦中のイングランドの南部の海沿いの町ヘイスティングスを舞台に、クリストファー・フォイル警視正(マイケル・キッチン)が、専属運転手のサマンサ(サム)・スチュアート(ハニーサックル・ウィークス)とポール・ミルナー巡査(アンソニー・ハウエル)の助けを借りながら、戦争の混乱を巧みに利用する犯罪者を捕えようとするTVの刑事ドラマの夢で、わたしが坐らされているのはそのヘイスティングス署内の取調室だった。
 もちろん、なぜわたしが取調室に坐らされているのか、なぜイングランドの南部の海沿いの町にいるのかまったくわからない。これはきっとわたしの作る芝居を嫌っている人たちの仕組んだタチの悪い冗談に違いない。
 取調室のマホガニーブラウン色のドアにノックがあり、ドアは静かに開いた。
 わたしはドアの方を向くと同時に立ち上がった。
 「どうぞそのまま。ご気分、いかがですか」。渋い落ち着いた声が机一つとイス二脚だけの小さな部屋に響いた。
 ……そう、1976年に流行った丸山圭子の歌に『どうぞこのまま』というのがあった。
     この 確かな時間だけが いまの二人に与えられた 唯一のあかしなのです
     ふれあう ことの喜びを あなたのぬくもりに感じて
     そうして 生きているのです くもりガラスを伝わる
     雨のしずくのように ただひとすじに ただひとすじに ただひたむきに
     それは ばかげたあこがれか
 顔の長い稲垣潤一もこの曲をカバーしている。稲垣の方がクールで好きだ。
 
 どうぞ、菅間さん、イスにお掛け下さい。
 「はい」。坐った。
 「遠路遙々、遠いところからほんとうにご苦労さまでした。輸送中、なにかご不便な点がございましたでしょうか?」
 考えるまでもなく、わたしの大好きなNHKの海外ドラマ「刑事フォイル」の俳優マイケル・キッチン演じるクリストファー・フォイル警視正のその人だ。日本語版吹き替え役、俳優山路和弘さんの声だ。わたしはほんとうに第二次世界大戦中のイングランドの南部の海沿いの町ヘイスティングスの警察署の取調室にいるんだろうか? 彼は日本語を喋っている……?
 
FOYLE  お忙しいでしょうから、早速本題に入りますが、よろしいでしょうか?
 
 いい声だ、いい顔だなあ。渋く素敵な男性だ。男が男を好きになることは、男にはだれにだって憶えはあるだろう。高校時代そういう行為はしなかったが、好きになった剣道部の男性の先輩がいた。
 
FOYLE  今回のお芝居「じぶんのことでせいいっぱい」及び前作の映像を見せていただきました。今回は幕開け直後、いきなりDA PUMPの「U.S.A.」のヒッポ・ホップではじまりました。今回の芝居にヒップ・ホップ・ダンスを取り入れることは、台本を書き始める前から考えていたことなんですか?
 
 ……稲垣潤一の歌のイントロが切れ切れに頭のなかで流れてきた。鉄格子のはまった窓の昼の光を見詰めながら「この 確かな時間だけが いまの二人に与えられた 唯一のあかしなのです」。心のなかで歌った。
 
FOYLE  ……? 菅間さん……? どうしました菅間さん……?
 
 ……刑事フォイルは、クルミも驚いて一発で「ごめんなさい」といって割れてしまうような見事な音を指で奏でた。
 
FOYLE  大丈夫ですか?
 
 ……夢のなかであれ現実は直視しなければダメだ……、「大丈夫です。いまのじぶんの状況がうまく呑み込めなくて。すいません、水を一杯、いただけませんか」。
 
FOYLE  サム……、 サム……、菅間さん、大丈夫ですか?
 
 ……「サム」? あっ、あの可憐な田舎っぺのそばかす顔のハニーサックル・ウィークス演じるサマンサ(サム)・スチュアートを呼んだのだ。折角だから夢が覚める前に生きている彼女の生姿をぜひ見てみたい。ややあって取調室のマホガニーブラウン色のドアがノックされ、
 
SAM  失礼します。サムです。お水を持ってまいりました。入ります。
 
FOYLE  ありがとう、サム、中へ。水を菅間さんへ。
 
 ……「サム」? あの可憐な田舎っぺのそばかす顔の、ハニーサックル・ウィークス演じるサマンサ(サム)・スチュアートだ。
 
SAM  ご気分、すぐれませんか? 長旅でしたもんね、具合が悪くなっても仕方がないですよ。はい、お水です。呑んで下さい。
 
 ……「あなたに飲ましていただきたい」と言いたかったがやめた。眼の前にTVドラマの可憐な田舎っぺのそばかす顔「サム」が立っている。おまけに彼女は日本語で喋り、声優の山根舞さんの声だった。「ありがとうございます」。水を飲んだ。
 
SAM  ご気分は?
 
菅 間  ……
 
 
   § 2  なぜ、ヒップ・ホップ・ダンスを取り入れたんですか
 
 
SAM  ヒップ・ホップ・ダンスは、ストリートダンスの中でももっともポピュラーなダンスの一つで、一般的にはヒップ・ホップの音楽・曲・ビートに合わせて踊ります。必ずしもヒップ・ホップ・ミュージックに縛られるわけではなく、実際にはどんなジャンルの音楽でも踊れます。基本的に、アップ↑(上で音を取る)とダウン↓(下で音を取る)のリズムをとりながら、様々な種類のステップ(動き)を組み合わせて踊ります。ヒップ・ホップ・ダンスのステップで代表的なものには「ランニングマン」がありますが、三代目J Soul Brothersの曲「R.Y.U.S.E.I.」で、間奏中にメンバー全員で指を指して踊っていたことでも話題となったステップです。ヒップ・ホップ・ダンスの振付には、これでなくてはいけないといった決まりがなく、身体のあらゆるパーツ(頭、肩、胸、腰etc..)を使って音楽に乗って自由に踊ることが特徴で、ソウル・ダンスやジャズなど、他ジャンルのダンス要素を取り入れるなど、時代によって新しいスタイルが生まれ、進化を続けています。……ネットで調べたままですけど。へへっ、
 
FOYLE  大丈夫ですか、菅間さん、
 
菅 間  すいません。大丈夫です。
 
FOYLE  じゃ、はじめます。今回のお芝居「じぶんのことでせいいっぱい」では、いきなりDA PUMPの「U.S.A.」のヒッポ・ホップではじまりました。今回の芝居にヒップ・ホップを取り入れることを、台本を書き始める前からお考えになっていたことなんですか?
 
菅 間  去年(2018)12月頃から台本を書きはじめ、ヒップ・ホップ・ダンスは書く前から取り入れたいと思っていました。
 
FOYLE  残念ですが、ヒップ・ホップは、わたしには乞食のダンスのようにしか見えませんでしたが、
 
菅 間  それは残念です。英国のクラシック・バレエ、ぼくには死に損ないの骨無しイカが踊ってるように見えましたけど、
 
FOYLE  お互いにとって大変に不幸な出会いというわけですね。わたしは、あなたはそれなりに芸術を見る眼をもっていらっしゃるし、敬意を払ってくださるお方だと思っていたものですから。間違いのようでした。質問を続けさせていただきます。ヒップ・ホップを取り入れた目的は芝居全体に関わる「構想性」とか「着想性」という問題で?
 
菅 間  稽古場に何かを取り入れる目的はいろいろありますけど、ヒッポ・ホップの導入は稽古場へ新しい楽しい刺激の風を与えてもらいたくて取り入れました。俳優さんたち、観客のみなさん、その両方の娯楽というか楽しんでもらえる場面を作ることができたらOKってくらいな感じで、
 
FOYLE  娯楽って、あの乞食ダンスをどのように見れば娯楽に見えるんですか。あ、失礼。練習は随分時間がかかって過酷だったでしょう、なんせダンスのど素人が騒がしいだけのDA PUMPの「U.S.A.」をコピーするんですから?
 
菅 間  ほぼ四ヶ月ほど稽古をしました。集まれば必ず毎夜ダンスの稽古をやってもらいました。けっこうキツイくらい練習でした。想像以上にヒップ・ホップは難しくほとんど踊ることは不可能でした。驚嘆すべきは動きの速さで、諦めなきゃダメかなって。リズムさえとれない、所作も憶えられない……、
 
FOYLE  でしょうね。で、乞食ダンスがなんとかいけるんじゃないかって思えてきたのは?
 
菅 間  幸いダンスを教えてくれる女優さんがいましてリード執ってくれました。公演の一ヶ月前頃から俳優さんたちに少しずつ笑顔があらわれてきて、俳優さんがそれぞれ固有に自分流の<格好良さ>とか、<自分のダンス=顔の表情や身体の見せ方>みたいなものを各々が独自に考えはじめ少しずつダンスがデフォルメされ、稽古場の雰囲気も明るくなってきて、それを見て、あ、これはいけるかもと……、
 
FOYLE  菅間さんにとって、ヒップ・ホップとはなんですか。どこでヒップ・ホップに出会ったんですか?
 
菅 間  あの……、
 
FOYLE  はい?
 
菅 間  だいたい、いまわたしは、どんな容疑があって取り調べを受けているんでしょうか。聴かせていただけませんか。
 
FOYLE  それはおいおいお判りになるかと思います。わたしの質問ですが、
 
菅 間  バレエが文学ではないように、芝居も文学ではありません。生の人間が俳優として舞台に立ち躍動し楽しむ姿をお客さんに見ていただくものです。当然歌や踊りがあってもかまはわないし、むしろその方が作っているぼくらも楽しいし、たぶんお客さんもまた、
 
SAM  賛成、楽しい。あたし楽しかったもん、
 
FOYLE  サム、
 
SAM  すいません。
 
菅 間  あの、サムさん、「サムさん」とお呼びしてかまいませんか?
 
SAM  はい、親しみを込めてどうぞ「サム」とお呼び下さい。なんでしょうか?
 
菅 間  サムさんは、ぼくらの舞台のヒップ・ホップ・ダンスを「乞食のダンス」だと思ってご覧になりましたか、それとも少しは楽しんで、
 
SAM  とんでもない、「少し」だなんて。涙が出るくらい楽しんじゃった。「乞食のダンス」だなんて失礼ですよ、フォイルさん。ヒップ・ホップ、教えて下さい。ぜひ教えて。憶えたい! up、down……、
 
FOYLE  サム、用事は済んだ。ありがとう。自室に戻ってじぶんの仕事をしないさい。それとも大好きな洗車の仕事でもいいつけようか?
 
SAM  ええっ、洗車は先週やったじゃないですか。ここにいちゃダメですか。だって……、
 
FOYLE  捜査には関わるなっていってるだろう、
 
SAM  ほんの少しだけ、いいでしょう。いいですよね? ねっ、ねっ、
 
菅 間  フォイルさん、フォイルさんのご質問にお応えしますので、サムさんをもう少しここへ、
 
FOYLE  菅間さんは、君のことが気に入ったらしい。そういうことだ。
 
SAM  (笑顔)はい。ありがとう。
 
 
   § 3  稽古場って楽しいですけど、やっぱり重苦しくてちょっと暗いんです
 
 
菅 間  ヒップ・ホップとの出会いはまったくの偶然です。取り入れた理由をムリにこじつければ、俳優さんが舞台でセリフを発語する瞬間の心と身体的な集中、ヒップ・ホップを踊る瞬間のダンサーさんたちの心と身体的な集中、ダンサーさんたちはひとことも言葉は発しないんですけど、その二つはかなり近いものがあるんじゃないか。両者はまったく同じだと断じることは即座にはできなせんけど、そう考えはじめてからヒップ・ホップを取り入れてみようと思うようになりました。
 
FOYLE  稽古場は、ヒップ・ホップの導入で変化しましたか?
 
菅 間  稽古場って、芝居を作る目的の逆立ち現象というか逆転状態を必ず生み出します。お客さんに楽しんでもらうための芝居作りなんですが、それを実現するには、なによりもじぶんたちが本当に楽しめるものを探し見つけ作り上げていくことが肝腎で、稽古場の一番大切な作業になっちゃうんです。そんな逆立ち現象を起します。俳優さんはじぶんたちが本当に楽しんでる姿をお客さんに見てもらいんです。ヒップ・ホップってかなり身体的にはきついですから途中で断念した俳優さんたちもいましたが、それはそれでOKなんです。稽古場の成員ってまちまちでOKなんです。
 
FOYLE  「なによりもじぶんたちが楽しみたい」。それはわかります。
 
菅 間  稽古場って楽しいですけど、やっぱりちょっと重苦しくて暗いんです。
 演技表現といっても、ぼくたちは落ち零れの凡庸組の俳優ですから上手くなろうと思ってもなかなか上手くなれないんです。みんな芝居が下手くそです。それでも心の底から芝居を楽しみたいと思って集まってくるのが俳優さんたちなんです。芝居のテーマや主題に関係なく、まず楽しめれば初期の作業としてOKなんです。その突破口として科白の意味とか背景の心理とか喋り方とか演技力云々とか、そんなあんまり難しいこと考えないで思い切り身体を動かし鬱憤を晴らすことができる<遊び>みたいなものを取り入れたら少しは俳優さんの気持ちも楽になるんじゃないかって、
 
FOYLE  『鬱憤を晴らすことができ』ましたか?
 
菅 間  ……できませんでした。というよりヒップ・ホップを取り入れたことで、むしろ従来から稽古場が抱えていた暗い重りのような様々な問題がより鮮明に浮き彫りにされてきちゃいました。
 
FOYLE  なるほど。どのように?
 
菅 間  ヒップ・ホップの場面はそこそこ五分くらいなんです。でも少しづつ出来上がってくるととんでもない強いインパクト(観客への浸透性)を持つ場面として成長してきました。ヒップ・ホップの場面が上向するにつれぼくの書いた台本の場面すべてがとても貧相に見えはじめてきたんです。ダンスと科白のあるドラマではまったく違う質のものですからそうなるかもしれないと予想はしていたんですが比較にならないほど科白のある場面がつまらなく見えてきました。本当のことです。つまり科白ってそれぐら俳優に苦難を突きつけるものなんです。台本書きや演出にしても同じことがいえます。ダンスの場面と科白があってエピソードを進行させなくてはいけない場面とでは、やはりまったく違うもんなんだって痛感させられました。で、明らかに位相が違うこの二つの場面を一つの芝居のなかにどうやって同居させるかという問題が稽古場で新たに浮上してきたんです。
 
FOYLE  でしょうね。で、どう処理なさったんですか?
 
菅 間  全面敗北です。結果としてぼくはこの問題について演出としてなにもできませんでしたし、しませんでした。中途半端でチグハグのまま公演までもっていってしまいました。
 書かれた台本とダンスをとても同格には扱えませんでした。でも本当はこの問題はちゃんと考えないと作品全体がダメになっちゃうくらい本格的なものです。「ダンス」と「芝居」との相違とはなにか。なにが実は一緒なのか、その課題が稽古場で迫ってきました。ぼくには背負いきれない課題でした。
 
FOYLE  映像を見させていただきましてとてもついていけない場面も多々あったのはわたしの正直な感想ですが、あなたのいう「チグハグ」さですか、それがなんというか奇妙だったというとアレですが、わたしには不思議な体験でした。場面が次々と容赦なく転換されていく。この速い場面転換にはきっと隠されたルールというか思惑があるに違いないと想像をたくましくしながら見ていました。どういう稽古をしていたらこんな芝居ができるのかとても興味を抱きました。菅間さんは、稽古場でいったいどのような稽古をなさっているんですか。
 
 
   § 4  稽古は、真似をすることからはじめた
 
  彫刻はおそろしい。 圓いものを圓く作る。 圓いものが果して圓いか。 僭越は罰せられる。
高村光太郎 詩「偶作十五篇」より  

 
菅 間  実に素朴な稽古方法で、どこでもだれでもやっている方法に過ぎません。好きな俳優さんの演技を真似することからはじめました。けっこう真似は持続してやりました。三十代の頃です。所詮真似はやはり真似なんです。本物にはとても近づけない。本物ってぜんぜん違うんです。けれど真似ることを続けていくうちになんとなく本物には個々それぞれが長い時間をかけて創出してきた固有の形態(観)みたいなものがあるんだなということが少しずつですがわかってきました。
 次にやったことは稽古場への自覚的に<遊び>を持ち込みむことでした。美空ひばりの「歌」でもいいし、落語の古今亭志ん生の「黄金餅」の真似でもいい、都はるみの「アンコ椿は恋の花」でも芝居以外のもの真似をはじめました。歌をうたうのは楽しいし、いまでも時々思い出したようにやってます。形態(観)を違う言葉でいえば、その人の「生命の糸=カタチ」みたいなものですか。凄い芸人さんたちはそういう生命の糸というか形態(観)を固有に作り上げているんですね。歌は楽しかったです。もう69歳ですから「演歌」とかそういうものがやはり身近な存在で、
 
FOYLE  わたしと二つ違いですか。いや、お若い。失礼。菅間さんのお得意の歌は?
 
菅 間  この歳ですからもう歌えませんが、内山田洋とクール・ファイブの「そして、神戸」とか「東京砂漠」はいまでも聴くのは好きです。
 
FOYLE  歌っていただけませんか、ぜひお願いします。
 
SAM  歌ってよ、お願い。歌ってよ! 歌って!
 
菅 間  四十歳若かったら歌うところですが、勘弁して下さい。
 なぜ稽古場に<遊びを持ち込む>かっていうと、ぼくらみたいな吹けば飛ぶような小集団には、台本には書かれていないイメージ、演出家の<仕込み>の作業、事前になにを稽古場へ<持ち込む>かということがとても大切なことなんです。台本の物語の内容以外に芝居を面白くするための演出上の創意工夫<タネ>とか<ネタ>、いわば劇団固有の作品の修辞的な色彩感の感性の創出です。
 いまのおおよそ大小を問わず劇団の芝居って、セリフを憶えて動きを付ければ、それでお終いって感じなんです。ほとんどのどこの劇集団でもそれなりの工夫を血が滲むような思いで頑張ってやっているんだと思いますが、でもそんな感じで日本では芝居が作られています。それはそれで事情もあるんですが、でもやはり実は奇妙なことだし、とても貧しいことなんです。でも、ま、この辺までにしておきます。あんまり喋り過ぎると「お前のとこの芝居がいちばんつまらねえじゃねえか」っていわれちゃいますから。
 いずれにしろ、書き手だろうが、俳優だろうが、演出だろうが、はじめはみんなだれでもが<素手>でしょ。手のなかになにも持っていない。それで勝負しなきゃならない。でも<素手>ではどうしても限界が出てくる。だからぼくなんかは芝居の外側の世界からじぶんが本心から面白いと感じたものを盗んで稽古場へ持ち込む作業をします。現在の生きている<風俗>を稽古場に持ち込むのです。
 
SAM  で、ヒップ・ホップを持ち込んだ? あたし面白かったです! 手拍子叩いてる人も口笛吹いてる人もいたじゃないですか。
 
FOYLE  サム、
 
SAM  金輪際い口は開きません。はい。
 
FOYLE  お続け下さい。
 
 
   § 5  物語を作成し構成する力と舞台の色彩感を作る力の分裂
 
 
菅 間  もう一つ別の理由というか、いまお話したことを少し突っ込んで考えたみたことがあります。
 ぼくは芝居を作る上で、物語を作成し構成する力<書かれた劇>と、俳優さんが立つ舞台じしんの基本的な感受性のカタチを作る力<演じられる劇>というか、俳優さんの演技表現も含めた舞台全体の手触り感とでもいうんでしょうか、その二つの力はまったく違うものじゃないか、異質な力なんじゃないか。
 同じ「歌」でも歌い手さんが違うとまったく違うニュアンスの歌、別な歌になってしまいます。落語の立川談志と古今亭志ん朝の同じ「芝浜」を聴いていても、まったく違うニュアンスの落語になっていて、二人の噺家の固有の存在感というか生命の糸を見てくるような気がします。
 これは何だろうとずっとぼんやりと考えてはいたんです。でも個性の違いといってしまえば話はそれでお終いでなんにも解決したことにはなりません。芝居も同じなんです。
 
FOYLE  一つ同じ台本を、資質のまったく違った映画監督(演出)がそれぞれに撮った映画は、
 
SAM  ぜんぜん違った映画(芝居)になっちゃいますよね、
 
FOYLE  サム、いい加減に……、
 
SAM  すいません!
 
菅 間  物語を作成し構成する力を言語の指示表出性が高いと考え、舞台じしんの基本的な感受性というか手触り感を形成する力を言語の自己表出性が高いと考えました。
 
FOYLE  『舞台の基本的な手触り感を作る力』、つまり人間の自己表出力の自発的な発現として現在の風俗の代表格の一つであるDA PUMPの「U.S.A.」を持ち込んだ?
 
菅 間  「そうだ」といい切ってしまうと限りなくウソに近づいてしまいます。でも、そうかな。
 ヒップ・ホップは、総じてだれにでも感じるであろう生活のなかで生成し次の瞬間には消滅してしまう心理を<踊る瞬間芸>へまで煮詰めいてった形態(観)です。それでいて彼らのダンスには直接性というか、なにか巨きなものに直接に話しかけているような感じがあるんです。この感想はいちばんはじめに見せてもらったヒップ・ホップの印象ですが。その点が非常に気にかかったんです。、
 
FOYLE  『彼らのダンスには直接性というか、なにか巨きなものに直接に話しかけているような感じがある』、判りきってるでしょう。彼らが『直接的』に話しかける相手とは彼らの眼の前の観客席に坐っている観客でしょう。
 
菅 間  違いますよ、フォイルさん。さっきお話ししましたが稽古場では必ず逆立ち現象が起こるんです。彼らもまたお客さんにじぶんたちの作ったダンスを斬新なものだと感心してもらいたいと思い練習を何度も積み重ねています。それは確かなことです。しかしお客さんにじぶんたちの作ったダンスを斬新なものだと感心してもらいたいという思いは、表現の内部で必ずもう一方の別の途を必然的に生み出します。内向していく視線です。彼らじしんがじぶんたちのダンスの方向は果たしてほんとうにこれでいいのだろうか、とか問いはじめる視線です。
 言葉を換えれば、観客とは彼らの眼の前の観客席に坐っている観客であることはいうまでもないことですが、同時に彼らのダンスのいちばんはじめの観客は彼らじしんだ、ということです。
 また舞台表現というのはぼくたちの生活の現実感性を基にして作られていますが、物語は現実の<喩>になっていますから、彼らが直接話しかけているのは<喩>としての誰かなんです。
 
FOYLE  ヒップ・ホップのどういうところに菅間さんは惹かれたんですか?
 
菅 間  ヒップ・ホップの強烈なリズムやメロディの断続の果てにやってくる彼らの一瞬の開放と空虚に、ぼくに深い感動を受けました。その感動の一点を支えているのは、それはたぶんは彼らは永続性への途ではなく、シャボン玉の泡のように次の瞬間には消えてしまう途を採ったということが一つ。その代わりに彼らが現在の世界から被(こうむ)っている空虚とか空白感を一瞬のうちに解き放してしまう方法を手にしたんじゃないでしょうか。
 二つ目は、彼らのダンスは彼らじしんの無意識が解放されていく方向へ。彼らの向かって方向は言葉を言葉以前に遡行させていく方向だとぼくにはそう見ました。<未知>を見ようとする眼と<大過去>を振り返ろうとする眼が一瞬間<同在>しているんです。これが二つ目。
 最後は、「物語を作成し構成する力」と「舞台じしんの基本的な感受性を構成する力」とが重なり合い、躙り合った重層的な構造物を作ることは現在ではもはや不可能なんじゃないかという内省が彼らのなかに体験的にか、あったんじゃないでしょうか。クラッシク・バレエのような構造的な物語性を背景に採用しなかった理由の一端もそこにもあるような気がします。
 でも彼らじしんが意識、無意識的に創りあげたヒップ・ホップが現在どんな意味と価値を持つものなのか、それを鳥瞰できる場所へ彼らが立つことは不可能でしょう。なぜなら彼らもまた現在の渦中の人なんですから。
 彼らのダンスもまた現在の芝居同様にその二つの力が出会えなくなってしまった<現在>という場所に咲いた淋しい花なんです。これが三つ目です。
 
 
   § 6  フォイル警視正からの反論
 
 
FOYLE  菅間さん、いくつか、ちょっといいでしょうか。はじめの稽古場の稽古の方法について余計なお節介かもしれませんが敢えて言わせていただきたいんですが。わたしはあなたとは畑が違っているのは承知の上でお聴きしたい。表現についてあなたはなにかとても大きな勘違いをなさっているように思えるんですが。<持ち込み・仕込み>の問題で、
 
SAM  <仕込み>は料理にだって必要でしょうが? 玉葱を切ったり、ハーブを摘んだり……、
 
FOYLE  サム、いいか。もし、君がここに居たいのなら……、
 
SAM  口にチャック。はい!
 
FOYLE  わたし、刑事という職業上というか元々旋毛(つむじ)曲がりのところがありまして、腑に落ちないところがあるとどうしても気になってしまう質で、突っ込んで聴きますが、かまわないでしょうか?
 
菅 間  お願いします。
 
FOYLE  菅間さんのおっしゃるいることは判るんです。稽古場に表現の肥やしになるようななにかを持ち込めば、あなたのいうところの面白い芝居ができる。持ち込まなければ面白い芝居はできない。でもその真逆のことはないんでしょうか。持ち込んでも面白い芝居は結果的にはできなった。持ち込まなくともが面白い芝居ができてしまった。つまりあなたの意見は、持ち込んだ方が多少なりとも面白い芝居ができる可能性が高まるかも知れないという、あなたの思い込みに過ぎないし、任意の問題に過ぎない。あなたは押し売りしている。それぞれの集団がこういう芝居を作りたいから、こういう稽古をしてみようかという稽古方法は、すべてそれぞれの集団の任意でよい筈で、自由でいいしょう。違います?
 
菅 間  芝居は観客(他人)に科白の意味、俳優固有の喋り方の雰囲気等の価値性を伝達することが第一義だと考えられていますが、稽古場ではまったくの違います。稽古場はひきこもりの時間です。じぶんと向き合う場所です。じぶんじしんに語りかける固有の言葉を彼が一人で見つける場所です。そこでは観客(他人)に伝えることは二の次でいいのです。
 稽古場では、じぶんと向き合える人もいますが、なかなか向き合えないひともいます。演出として、その人たちをどうしたらいいのか、本当のところぼくはなんの手助けもできません。で、たぶん、いろいろなものを持ち込んだりするんだと思います。持ち込みの善し悪しは他人の判断に任せます。
 
FOYLE  ……なるほど。……でも、この際ですからもう少し言わせて下さい。舞台作品の背後にある稽古時間をどんな風に過ごしていようが、怠けていようが一生懸命に頑張って稽古していようが、つまり俳優さんが稽古時間になにをしていようが厳密にいえば結果としての<作品>の芸術的価値とはまったく無関係でしょう。これはとても大切な基本的な認識です。怠けて作っていようが面白い作品は面白い。頑張っていろいろな試行錯誤を重ねて努力しても詰まらなければ詰まらない、というほかない。
 あなたのなかで<作品>と<稽古>とが明確に分離がされてないのではないでしょうか? どうもあなたの意見を聴いていますとそういう……、
 当然、あなたは今回の芝居の当事者だから、あなたのいうようにあなた方は<作品>と<稽古>とを地続きのものとして考えざるを得ないのも、わたしにもようく判ります。でもね、ヒップ・ホップを今回の芝居に取り入れたかった。だからダンスの練習に長い稽古時間をあなたは要求した。それだけの問題でしょう。違いますか?
 でも、ま、何となくなんですが、菅間さんたちの稽古場の肌触りの雰囲気が少しは把かめたような気がします。ありがとうございます。菅間さんが歌をうたっている姿を想像すると。
 それともう一つ、ヒップ・ホップ・ダンスを<踊る瞬間芸>のという言葉はヒップ・ホップの表現スタイルの特性を語ったあなたの認識の披瀝に過ぎない。正鵠を射ているかもしれませんが、
 あなたが最初にヒップ・ホップを見たとき、そこに『現在の生きている<風俗>』の楽しさを見たから驚いたんでしょ。で、ヒップ・ホップを取り入れた。あなたが語るべきは、またあなたからぜひわたしがお聴きしたいのは、ヒップ・ホップを見たときの最初のあなたの驚きの具体的、感覚的な言葉です。その時あなたは瞬間的にであれ<現在>を感じたんです。だからヒップ・ホップを稽古場へ取り込みたいとお考えになった。お応え願えないでしょうか?
 
菅 間  ぼくの言葉は、表現スタイルのあと付け、スタイルの特性を任意に述べたに過ぎない、
 
FOYLE  あなたの言葉はなぜかわたしの心をちっとも動かさない。あなたの感じた感動の説明にもなっていない。何か違うんです、あなたの言葉は途方もなく。じぶんの驚きにメスを入れていない。
 
 
 
   ★★★★★★★★★★★ ☆ ★★★★★★★★★★ ☆ ★★★★★★★★★★★
 
 
 
     ★ この稿、続く。      ★ aboutの頁へ戻る。
     ★ ヒップ・ホップ・ダンスを教えてくれた友人のHPの今回のポテトの芝居への感想文へ。
     ★ 参照文献=故吉本隆明氏の<若い現代詩>について。