日付:2019年8月 

 「じぶんのことでせいいっぱい」について (1) ~

 

37回公演「じぶんのことでせいいっぱい」より、冒頭に近いシーンでDA PUMPの「U.S.A.」を踊る俳優たち (1) 

 

ミルナー巡査部長 ミルナー巡査部長と申します。早速ですがタテヨコ企画さんとポテト堂さんは、相互に稽古や公演を見に行くくらい劇団同士の親密のご関係にあったということですが、そのご関係からお聞きしたいのですが?
 
菅 間  今回の「じぶんのことでせいいっぱい」公演初日の5日前になって、ようやく稽古場でダメ通しができるようになって、稽古場も劇団一の会のワンズ・スタジオさんに無理をいってお借りしてたんですけど、そのはじめてのダメ通しをタテヨコ企画さんの主宰者であり台本・演出の横田修さんが見に来て下さって……、今回の彼の訪問は、なぜかとてもうれしかったんです。
 
ミルナー巡査部長 「うれしかった」、それは、タテヨコ企画さんの俳優さんがポテト堂さんの公演に何度も参加して下さっているということからくる親密感ですか?
 
菅 間  そうです。けれども、それより「馬が合う」っていった方が正しいです。よくお酒を呑んだりするんです、タテヨコさんの俳優さんとは。演劇理念がどうだとかこうだとかの難しい問題なんかどうだっていいんです。人間本意です。お互いに芝居屋なのに、演劇理念で繋がることなんかもう不可能に近い状態なんです。それは芝居の世界に限ったことじゃないと思いますが。
 横田さんは仕事の関係で、その日しかポテトの芝居を見る時間がとれないということだったと思うけど、彼の訪問には他に意味があるような気がしたんです。つまらないぼくの勘ぐりなんですけどね。今回のポテト堂の芝居はちょっとおかしい、今回はダメなんじゃないだろうかという噂をどこかで聴いて、ごじぶんの眼でその真意を確かめに来たというより、なんというかぼくには、彼の訪問の姿勢から、ぼくなんかがいまやろうとしている今回の試みを温かく見守ろうという感じでわざわざみに来て下さったんじゃないか、そんな感じを彼の訪問時の姿勢に感じたんです。で、うれしかった、そう言ったんです。
 
ミルナー巡査部長 今回「じぶんのことでせいいっぱい」という芝居でやろうとしている菅間さんの試みとはなんですか?
 
菅 間  順序として、ぼくの今回やろうとしたイメージから入るのが適切なんだけど、ダメ通しを見ていただいた後の横田さんから三つつほど質問を受けたんです。その三つ質問の方が具体的に話題が拡がっていくように思いますから、そっち方から入りたいんです。いいですか。
 
ミルナー巡査部長 お願いします。
 
菅 間  ダメ通しを見終わったあとの横田さんから三つの思いがけない質問を受けました。その折りの彼の言葉の繊細な言葉の陰影を憶えてないので、ぼく流に翻訳していますが、彼の質問は確か次のようだったと思います。
 
   (1)菅間さんの本姿は、台本のなかにあるのか?
   (2)今回は、以前の菅間の作品とくらべてテーマ性が強く打ち出されているように思えるが、
   (3)いつもの菅間の台本に較べて、直接的な言葉が多いと感じたが……、
 
ミルナー巡査部長 (1)「菅間さんの本姿は、台本のなかにあるのか?」とは、どういう意味ですか?
 
菅 間  その質問は、具体的には九景の「たった一人の西日暮里駅襲撃」についてのものでした。九景の原本は、村上春樹氏の「パン屋再襲撃」から勝手に拝借して書いたんですけど、彼の質問は「パン屋再襲撃」にあるような「襲撃」というイメージに依然として菅間はリアリティを感じて今回の台本を書いたのか、というようにぼくには聞こえました。だから、現行の台本のなかにぼくはいない、といいました。
 
ミルナー巡査部長 「現行の台本のなかにぼくはいない」? 菅間さんが書いた台本ですよね。どういうことですか?
 
菅 間  唐突なイメージから話すと、夜中近くの公園てコソコソとなんか話している人たちがいたとして、その人たちがなにを話しているのかを想像するとなんかとても不気味で、不謹慎なイメージがぼくのなかで妖しく拡がります。人として決して口に出してはいけないような、とんでもないことが話されているような感じがする。そこで「たった一人の西日暮里駅襲撃」みたいな場面を書いたんです。もっと正直に言えば、他に書くことが見当たらなかったから村上春樹氏の「パン屋再襲撃」をお借りしたんです。
 六景の「高橋と美代のダンス」の「襲撃」について語る場面を引用させてもらいます。
 
 
  美代(老婆)  あたしね、今夜、終電が通り過ぎた後、JR西日暮里駅が真っ暗になったら、駅へ忍び込み、ホームにペニスとワギナの悪戯描きをするの。…… 一緒に、来ない?
  高橋(老爺)  「ペニス……?
  二人  (大笑い)
  高橋  ワギナ……?
  二人  (大笑い)
 
 
ミルナー巡査部長 「ペニス」「ワギナ」なんて直接的な言葉を舞台で使ったりするんですか。イギリスでは考えられないですね?
 
菅 間  そうなんですか? 「夜中の西日暮里公園」によく出入りしている老婆と老爺の二人が、「襲撃」というイメージの話をこのわずかな数行で語るんです。
 この二人の会話の底のイメージには、故吉本隆明さんの『「マス・イメージ論」のなかにある文章を借りれば、この場面は『「現在のシステムに露出させられたじぶんの無意識を揺さぶって (解体論・162頁)」』いる。そういうことにしたいんだけど、ぼくの水準でそんな台本は書けません。でもこの作品の登場人物たちが、現在の社会から蒙っているわけのわからない苛立ちや不安に対しての彼等の無意識の抗い、揺れみたいなもの表出のつもりで書いたんです。だれでもわかるように、現在の感覚としてちょっと古臭いイメージが付きまとっていますが、でも、このたった数行の話が結果として、二つの場面を生み出したんです。その一つが、
 
 
  九景  たった一人のJR「西日暮里駅」襲撃
 
      ★舞台、薄暗い。
      ●風の音。
      美代、舞台奥より出て、正面を見詰める。
      ややあって、孝則、花道より、出る。
  孝則  (微笑)夏休みの昆虫キット、憶えてます?
  美代  (微笑)注射器、青色と赤色の防腐剤、
  孝則  安っぽい虫眼鏡、ピンセットとか、いろいろ入っていて、あれ、苦手で、諏方様の土手で、よく虫捕まえたりしたけど、虫に防腐剤入りの注射できなかった、可哀想で、
  美代  ……
  孝則  (「JR「西日暮里駅」襲撃」)一人で行くんですか、助(す)けますよ?
  美代  ……
  孝則  なんで?
  美代  ……判らない、
  孝則  山手線、内回り、最終、出ます、
  美代  ダンス、教えてくれて、ありがとう。楽しかった。
  孝則  ぼくだって……、
      ●電車の通過音。
  孝則  見届けます。諏方様の地蔵坂の土手から、
  美代  手は出さないで!
  孝則  もちろん、
  美代  お月さま、顔を出した。
      二人、月を見る。
  美代  (実に楽しそうだ)……じゃ、
      美代、花道から、消える。
      孝則、美代の後ろ姿を見詰め、ゆっくり花道から消える。
      ●Beatlesの「Mr.MoonLight」、風の音に混じって入る。
      高橋、半裸姿で、舞台奥から、出る。
  高橋  美代さん! 美代さん!
      高橋、舞台を一周し、花道へ、消える。
 
 
菅 間  この場面は、さきほどの老婆「美代」が一人で「西日暮里駅」に襲撃へ向かう寸前の場面です。「孝則」という登場人物は<死者>として出てきます。
 観客から、こんな場面はいらないし、ただの説明的なお釣りじゃないか、余分だよ、そう言われるかも知れない。その通りだよと応えます。反論はしません。
 けれども、この場面は不要だったかも知れないけれど、必ずしもそうはいいきれない雰囲気が稽古現場から生まれてきました。この書き言葉たちに、照明、音響、演技、声が入ってくると、表現の様相が違ってきました。「九景・たった一人のJR西日暮里駅襲撃」では、ぼくの不味い書き言葉が稽古場でほんの少しだけ壊れて、ポテト堂の、なけなしの吐息のような喋り言葉の文体に転移していく兆候が出てきたんです。言葉が瞬間に生まれ、次の瞬間には掻き消えている、けれども言葉のイメージの痕跡は心の底のどこかに残っている。そんな場面になっていきました。
 初期に書いたぼくの台本のどの場面でも、俳優さんたちより多くのダメが出されます。この場面でも俳優さんたちから科白が多すぎるから削除してくれという申し出があり、半分以上の科白を削除しました。で、結果として切れ切れの繋がらない科白の羅列になってしまったんですけど、繋がらないこと、あまり多くを喋らないこと、その<ちぐはぐさが>がなぜか会話に固有の雰囲気を与え出し、良い方へ向かったと思いました。
 ここには挙げませんけど「十景・四人のバック・ヤードたちのダンス」の場合は、登場人物たちの見ている光景(老婆と老爺がJRの鉄柵を超え、線路を横切り、西日暮里駅へ侵入する場面)の演技表現は、眼前に起こっていることの<描写>を目的とするのではなく、声を正面に押し出す、声を眼の前の床に置くという演技表現の基本的な作業しかできなかったんですけど、ぼくは納得していました。
 
ミルナー巡査部長 「(1)菅間さんの本姿は、台本のなかにいない」という台本にも関わらず、稽古現場では具体的に表現上の収穫があったと? でも、それは結果論でしょう?
 
菅 間  結果論です。書かれた台本の内在論ではありません。でも芝居作りって、結果論ばかりだと思います。一つの台本を、ぼくも含めて俳優と一緒にああだこうだって二ヶ月以上も試行錯誤をくり返して稽古し、結果として幾度も台本も変更されていきます。台本を書いた当初には本人さえ予想もつかないところまで稽古現場は歩いて行ってしまうんです。だから結果論といわれてもOKだと思っています。
 もう一つ「現行の台本のなかにぼくはいない」といった理由は、村上春樹氏の「パン屋再襲撃」は1985年8月の発表で、現在は2019年でしょ。いちばん新しい長篇小説は2017年の2月「騎士団長殺し」です。この30年の時間の経過はとても大きいものです、社会が大きく変わってしまったんですから。そうした時代の変遷から村上春樹氏の小説の30年の変化を類推できるのかも知れないけど、その問題はぼくの手には負えません。そういうことも含めて、この30年の日本の社会の大変化をまったく認識できない鈍感なぼくが書いているんですから「現行の台本のなかにぼくはいない」といったんだと思います。
 これらの場面は『現在のシステムに露出させられたじぶんの無意識を揺さぶって』いる、ということを教科書を習うように書いたんですが、もう少し勉強がぼくには必要である、ということです。
 
ミルナー巡査部長 DVDの舞台映像を見せていただいたかぎりでいうと、それらの場面の良い悪いは判らないんですが、とても奇妙な場面で「老婆」も「孝則」も本音をあまり喋らない、でも相互に本音を喋らないから得体の知れない雰囲気が出てきて、なんとなくこういうの判るってな感じで見させていただきました。
 では、「(2)今回は、以前の菅間さんの作品とくらべてテーマ性が強く打ち出されているように思える」についてお願いします。
 
菅 間  これは「闇夜の提灯の(1)~(3)」の場面を見た後の横田さんの感想だと思います。横田さんには今回の「じぶんのことでせいいっぱい」は<反戦>のイメージが色濃く打ち出されている作品に結果としてなってしまっているんじゃないかって言われました。具体的で率直な感想で、根拠のある意見で、「やっぱりそう映るのか」と思いましたね。
 
ミルナー巡査部長 なんとお応えになったんですか?
 
菅 間  もちろん反論はしませんでした。じぶんが試行錯誤してみたいことが二つほどあり、それを述べました。一つは、いままでサイド・ストリーだった「闇夜の提灯の(1)~(3)」にメインの物語性を持たせたら、全体としての作品は、どういう変化を蒙るだろうかという試み。二つ目は、「闇夜の提灯」で描きたかったのは、夫婦の情愛というより、わずかでも夫婦の<性愛>近くへ芝居をもっていけたら、という試みです。
 「闇夜の提灯」の場面を一つとりあげてみます。
 
 
  「闇夜の提灯(1)」の明日の行方を思い悩む二人……、
 
  しの  配給米を少しずつ溜めた三合。でも、これ全部、家にある米……、
  捷吉  溜めたな。今夜、そいつに『鳥鍋』に化けてもらう。銭はかかるが、毎日、芋や大根飯や菜っ葉飯ばっかりじゃ、お前も少しは栄養つけろ、
  しの  (うれしそうに腰を動かしている)あたしは……、
  捷吉  鬼畜米英、戦時中だぞ、淫らな腰つき、慎め!
  しの  なんか、久しぶりに下半身が、勝手に動いて……、
  捷吉  いいんだ。ぼくもだ、(腰を動かし)……、
  二人  (笑う)
  捷吉  ほんの少しだけ、今夜、贅沢しよう。明日のことを考えるのはやめよう。卵も沢山付けてくれるそうだ。
      二人、夜道を歩きだす。
  捷吉  「満州農地開発公社」の広報課の嘱託で、待遇は課長に準じ、住宅も提供してくれ、留守宅手当ても出る。毎月さ、いくらかでも、お前の手元へ届けば、実家で肩身の狭い思いをしなくてすむ。
  しの  あたしは……、
  捷吉  向こうで、現地徴集を受けることになる。覚悟しといてくれ、
  しの  ……
  捷吉  オレのような役立たずの三文文士は、軍の報道班員となるしか途はない。断れば、明日にでも赤紙が舞い降りる。
      ●飛行機音……、(※実際に音響はかからない)
 しの  飛行機? 空襲?
 捷吉  や、あの高さだから、偵察機だ、
 しの  ……
 捷吉  警報もならないし、迎え撃つ高射砲は杉の木造りで、弾もすでに無いのさ。急ぐぞ、
 しの  はい、(スキップを踏む)
 捷吉  「鳥鍋」と聴いて、足取りがいいな、
 しの  なんか、下半身が勝手に動いて……、(奇妙なスキップを踏む)
      捷吉もスキップを踏む……、
 二人  (微笑)面白いなァ……、
 捷吉  ……いざ日本を離れると思うと、「なにを、オレはやり残したのだろう」と考えてみるんだけれど、じき梅雨だ、家の雨戸、治さなきゃ。そんなことしか思い浮かばない。
      ※ 十幾年そのままにして過ぎて来つ外れる雨戸のことのみならず
      (柴生田稔「麦の庭」より)
 しの  (微笑)雨戸、治してからにして下さい。
 捷平  いまの借家へ移った雨の日の夜に、お前に早速にいいつけられた。
    あれから……?
 しの  十二年です。
 捷吉  (微笑)治しておきます、です。
      二人、笑いながら、花道より、消える。
 
 
菅 間  これは、詩人・小説家の故木山捷平著の「苦いお茶」という名短編をお借りして書いたんですけど、こんな感じで戦時下の夫婦の生活を、彼等のその生活感性の意識の帯域を超えないようにして書いたつもりです。けれども見る人には、菅間が<反戦>を柄にもなく書いていると映ったんでしょうね。でもそれは仕方がない。「闇夜の提灯(1)~(3)」の場面を見て、そういう感じを抱いてしまうことを、二人の科白の全体のイメージの流れのなかで払底できなかったんですから。観客は、『眼』でゲートル巻いて国民帽を被った男やモンペ姿の女を見て、『耳』で「満州農地開発公社」とか舞台でいわれたら、それはどうしたってそっちの方がインパクトかはくがあるから観客の心に強く残ります。
 でも、二人の生活の方からも科白は書いてるんです、規模はとても小さいですけど。横田さんには言いませんでしたけれど、『十幾年そのままにして過ぎて来つ外れる雨戸のことのみならず』という故柴生田稔さんの短歌の挿入です。上の場面の前半と後半で、等量の比重とはいい難いくらい小さな量なんですけど書いてはいるんです。でもこんな豆粒みたいな科白の挿入じゃダメでしたね、お客さんの見た、聞いた印象は覆りませんね。作家の思い込みだけでは、表現は成立しないよ、ということです。
 最後は、二つ目の課題を推し進めた「十一景 闇夜の提灯(3) ~ 戦后篇 ~ 」です。
 
 
  「十一景  闇夜の提灯(3) ~ 戦后篇 ~ 」
 
      ●蛙の声。
      舞台奥より、しの(洋装かもしれない)、提灯を持って、出る。
      花道より、捷吉、提灯を持って出る。
  捷吉  ……どなた様?
  しの  (頭を下げ、ゆっくり顔を上げる)……
  捷吉  (微笑)……待ち伏せか? 旧劇じゃあるまいし……、
  しの  (軍隊式の敬礼、泣く)……
  捷吉  泣くな! こうして生きている。(敬礼)……木本捷吉、ただいま帰って参りました!
  しの  (捷吉に駆け寄り、彼の身体を確認する)……手! ……腕! ……脚! ……太腿! ……お腹! ……顔! ……頭! みんなついてる! (※台詞は、現場が優先)
  しの  アアッ! (捷吉のズボンを力ずくで脱がそうとする)
  捷吉  バカッ、お前の大切な股間の大砲は、無傷だ!
  しの  (大砲を拝み)ウワァーツ、ヨガッタ! (今度は、捷吉の唇に、キスをしようとする)
  捷吉  ……バ、バカモン! (「そういうことは」)家に帰ってからだ!
  二人  ヨガッタ!
      (大泣き、大笑い。そして抱き合う)
  捷吉  骨になって、小包で帰って来ると? 家へ、帰ろう、
  しの  はい、
      二人、闇夜の道を歩きはじめる。
 
 
菅 間  この場面は、演出として頑張りましたし、俳優さんもとてもよく頑張ってくれましたが、科白が堅すぎて、描きたい<なにか>に対して届いていないんです。
 
ミルナー巡査部長 映画なら二人のベット・シーンなんかもできるんでしょうけど。舞台は、それ、できませんからね。言葉の柔軟性ということですか?
 
菅 間  稽古の終わったあとの呑み屋で「しの」をやってくれた女優さんに、
 「相手役と接吻してくれますか?」って訊いたら、
 「それ、セクハラになりますよ」
 芝居を民主主義で作っているわけではありませんけど、演出の演技に対する要求とか必然性とかが俳優さんに伝わらないことは多々あります。演出の言葉不足です。
 
ミルナー巡査部長 本来は<反戦>というイメージを強く描くつもりはなかったんだけれど、<反戦>のイメージが、菅間さんのやりたいことを超えて観客の心へ大きく入っていってしまった。
 
菅 間  客観的にじぶんの作った芝居を見るというか、出口から芝居を見直すというか、その作業は稽古場でかなりやってるつもりなんでけど、思った以上に出来ていないんですね。やはり大変難しい作業だなと思い知らされました、横田さんの言葉から。
 
ミルナー巡査部長 あの、お話の腰を折るようで申し訳ないんですが、基本的なことというか、菅間さんは、どのような感じで台本をお書きになるのですか。そのお話をしていただけませんか? ぜひ、そこ、伺いたいです。
 
菅 間  ポテト堂の芝居って、パッチワーク芝居というか、貼り絵芝居、オモチャの積み木芝居っていうか、バラバラのいくつかの場面を繋ぎ合わせていくという方法です。昔から「お前の芝居はおもちゃ箱をひっくり返したけだとか、駄菓子屋の店先芝居だ」とかよくいわれてきました。いまでも実はそんな感じで芝居作を作っています。
 はじめからぼくは壊れているんです。ひとつのテーマがあって、それに応じた物語を作って、縦糸と横糸で布を丹念に織るように作品を作るということが、ぼくにはできないんです。こらえ性が無いんです。ぼくは、パーツ、パーツを集めてなんとか一本の芝居にしていくような、パーツ芝居だってじぶんの芝居をそう思っています。
 したがってぼくは、書き方の方法なんて自覚的にはなに一つもっていませんけれども、ぼくはいわば現場の職人ですから、具体的にその日その日の積み重なりで自然に身に付いたじぶんなりの作業方法についてなら大雑把ですがお話しはできます。ぼくには、大文字の社会的なテーマ性なんか一つもありません。けれどももう70才近いんですけど、芝居を作りたい願望だけはまだあります。
 では、どうやって書き出すのか、なにを書き出すのかっていえば、たとえば原稿用紙半枚ぐらいの場面(パーツ)や科白のメモとか舞台で流したい音楽とかを一つひとつ書き出してみる。じぶんの日常生活のなかで感じたこと、次回の芝居で使用したい音楽、これは芝居にしたいなと思った小説や詩、こんな会話は現実の生活ではあり得ないウソだっと感じてしまっても一人の観客として見てみたい気持ちを抱く芝居の虚構性への嗜好、そんなもんをとにかく30~40枚書いてためてゆく。はじめはそれだけのことしかできないんです。そしてそれらのパーツやメモがじぶんのなかで熟成していくのをゆっくり待つしかないんです。才能もないクセにはじめからこういうものを書いてやろうみたいな感じで机に向かって書いてほとんど失敗してますから、いまはあんまりいろんなことを慌てて決めないで気楽な感じで書きはじめます。ゴミ箱に捨てらてしまうメモの方が断然多いんですがね。
 こんなローカルな話っていうか、こんな一般化しない話でも、いいですか?
 
ミルナー巡査部長 や、奇妙な話です。バラバラのメモ書きからはじめる?
 
菅 間  じぶん以外の台本の書き手のことはわからないからハッキリいうことは避けなければならないけど、少なくともぼくにはどうしても書かなければならないもの、書きたいものなんてもってないんです。書きたいものなんてなにももっていないから、書くんです。
 けれども、「書きたいものを持ってない」というイメージは、現在の若い台本作家だけではなく、それなりに名前のある台本作家さんの多くもそうなんじゃないかとぼくは思っています。そしてこのことは、現在の書き手を不安に陥れる大変に重要な要因になっています。
 ここに一人の台本作家さんがいるとして、「書きたいものをなど持っていない」し、じぶんは心はちょっと「壊れてしまっている」かもしれないと思っている。するとそういうものへの修復の作業として台本を書くばあいもあるでしょう。逆に「壊れてしまった心」をより自覚的にさらに揺さぶって壊していく作業として台本に挑む場合もあるでしょう。現在では台本の書き方に所定の書き方なんてものはなに一つないんです。それぞの台本作家たちは不安のなかで、各々の書き方を苦悩して作りだしてるのが現在です。
 30~40枚ぐらいたまったパーツやメモを頭のなかで組み合わせていく。無理矢理にパーツたちやメモたちを関連付けたりしない。最初から辻褄なんか合わせない。テーマ性など求めたりはしない。もの欲しそうな顔をつい出しちゃうんだけど、なるべくしないようにする。そんなことを何度も繰り返していると、まだメチャクチャなんですけど、なんか薄ボンヤリしてるんですけどパーツやメモが繋がったり離れたりして無定型なカタチみたいなものがあらわれてくる感触が出てくる。
 そうするとその無定型なものに、少しは明瞭なカタチや方向性を持たせたい感じが出てきますから、またパーツやメモの補完が必要になってくる。実際に書く作業は、喋ったように整然とはしていませんが、ここで『継ぎ接ぎ』だらけなんですが、台本のはしりみたいなものが出来上がってきます。
 
ミルナー巡査部長 台本書きのだれもがはじめから「書きたいもの」をもっているわけではないし、努力してじぶんの「書きたいもの」を探し続けるわけだし、同様にだれもが人は「壊れた心」から出発するんじゃありませんか? あ、余計なことを話しました。すいません。
 稽古場には完成原稿をもっていくわけではない?
 
菅 間  当然完成形を持っていきたいんですが、持っていけません。イメージでいえば、初期の稽古段階では、俳優さんを空高く飛ばすための飛行場の滑走路みたいな原稿=メモぐらいしかもっていけません。で、稽古場では、そのメモの<公開性>や<ピント合わせ>みたいな問題を、俳優さんと稽古終了後の酒の席でワイワイガヤガヤと共に確認していくわけです。
 もうひとつ、ぼくみたいな座付き作者は、俳優さんをアテにして書きます。書く前に俳優さんが先験的に存在しているのです。彼・彼女に今回はこういう<役>や<場面>をやってもらいたいという気持ちです。これ、けっこう大きな比重をもっています。これで現場で大失敗することも多々ありますが、書く上でかなりな力になってくれる場合もあります。
 
ミルナー巡査部長 わりと俳優さんたち相談して稽古場を進めていく?
 
菅 間  であると同時に、そうではないとも言えます。ポテト堂では、台本を読み合わせて、台本を机上で解釈することは一切しません。すべて俳優さんにお任せです。
 ぼくの書いていった台詞を、俳優さんの方から変更したいという申し込みは毎回たくさん出てきます。こんなセリフ言いたくないやとかも含めて。でも大きくセリフの意味内容や、人物形象や場面の雰囲気を損なわなければ、ほとんど受け入れます。またこんな場面は必要ないと俳優さんが考え、ぼくも賛同すれば、場面自体も無くなります。つまり俳優さんがそれぞれにおいて、すでに彼ら固有の解釈してくれていますから、そういう意見が俳優さんから続々と出てくるのです。だから台本の解釈は稽古場ではほとんどやりません。けれどDA PUMPの「U.S.A.」の完コピをぜひやってみたいという芝居全体の手触りの根幹のかかわることは、ぼくも強調して発言し続けます。
 
ミルナー巡査部長 質問を変えます。では、そういう『継ぎ接ぎ』だらけの台本の書き方を現在まで持続してきて、その方法の最終形態といいますか、どいう芝居が実現できればよいと考えていますか。それを訊かせていただきたいです? あるいは逆に、どうなってしまうと『継ぎ接ぎ』の台本の方法は壊れて無効になってしまうんですか、併せてそれも?
 
菅 間  そこがいちばん大事な問題なんですよね。考えてはいるんですけど、いまんところどうなったらベストだぜっていう芝居の最終イメージはありません。こういう芝居が作れればいいっていう。
 でも反対のその方法の壊れ方、解体の仕方っていうのはよく判っているつもりです。人物や場面の関係が任意(趣味・嗜好)過ぎるものになって壊れていくんだろうなって思います。フィクションとしての芝居から任意上の必然を喪失しまうことです。それと台本自体が、現在の風俗に接触する途を閉ざしたときです。
 
ミルナー巡査部長 ダメです。ぜひこの問題には応えて下さい。いや、菅間さんには応えるべき義務がある。たとえその菅間さんの採った方法が、ギリギリの仕方のない選択であったにせよ、現在も持続的にその方法を採用している。当然、菅間さんが見定めようとする彼方にある舞台のイメージを、観客のみなさんも見みたいから、菅間さんたちの舞台を見に来るわけです。一応台本書きさんなんだから。彼方の望んでいるポテト堂の今後のビジョンへの解答を拒否するのは、ポテト堂に集まってくる俳優さんたちも含めて、ポテト堂の芝居に期待を寄せて見に来てくれるお客さんを、裏切る結果になりませんか。
 
菅 間  黴がはえたような古臭い「夢」の話しかできません。「夢」だから当然実現しっこない話です。
 抽象的な言葉でしか言えないのが残念ですが『「演劇とはなにか」を内在的に問うている芝居であるにも関わらず、優れたエンターテインメント性を兼ね備えている作品で、そしてそれは芝居に用途性、使用価値性はなく、だけれども交換価値だけはある』そういう感じの芝居を作りたいです。
 
ミルナー巡査部長 ちょっとそれじゃ、なにを仰ってるのかぜんぜん判らないなあ。
 具体的に質問します。これ、今回の公演「光合成クラブ・Ⅱ」の菅間さんが書いた挨拶文の冒頭です。
 
 『NHKの「ドキュメント 72」の構成をお借りし、定点カメラを西日暮里公園の小さな広場に据え、広場に集う人びとの言動を時間の推移のなかで描いたものです』
 
 『定点カメラを西日暮里公園の小さな広場に据え、広場に集う人びとの言動を時間の推移のなかで描いたものです』。これでは芝居にはならないんじゃないかと思うんですけど、いかがでしょうか。芝居に、具体的な人間関係の葛藤の物語がないなんて。あ、すいません。シェークスピアの「ハムレット」とか「ロミオとジュリエット」とか「マクベス」ぐらいは学生の時に勉強会で見てますから。
 菅間さんは現在どんな芝居が面白いとお考えになっていらっしゃるんですか、ちっとも判らない。なにを芝居とお考えになっておいでなんですか? わたしには、あなたの話から、なんにも見えてこない。
 
菅 間  じぶんでも、それがまだよくつかめていないんです。それがぼくの実態です。
 
ミルナー巡査部長 では、今回の芝居の場面取りの大きな設定、つまり虚構の場所ということですが、JR西日暮里駅の横の『西日暮里公園』と決めたのは作業行程のなかのどのような段階ですか? それになぜ『西日暮里公園』だったんですか? そして『広場に集う人びとの言動を時間の推移』で舞台を構成する。それじゃ三文の値打ちの無い詰まらないドキュメンター映画と同じじゃないですか。なぜ『広場に集う人びとの言動を時間の推移』を構成することが芝居になっていくんですか?
 すいません。わたしには、あなたが物事を怖ろしく短絡しているような、イカサマを犯しているような気になってきました。ちょっと腹が立ってきました。芝居のことなんか、なんにもわからないのに、ごめんなさい。ぜひ、教えて下さい。
 
菅 間  ミルナー巡査部長、あなたは誠実な人で、立派なお巡りさんですね。
 
ミルナー巡査部長 いえ……、
 
菅 間  もし「夜中の公園」に集まってきたそれぞれの人びとの心の中には真実の体験、現在の社会で生きることの困難さと窮屈さからくる無意識の揺れる声みたいなものが秘められていて、その声たちを収集し構成していたとしたら、どうでしょうか? 芝居になりませんか?
 
ミルナー巡査部長 「真実の体験、現在の社会で生きることの困難さと窮屈さからくる無意識の揺れる声」?
 
菅 間  まず話を戻しましょう。虚構の場所をJR西日暮里駅の横の『西日暮里公園』と決めたのは、かなり早い段階です。場所の設定は、室内か屋外の相違で、俳優の登場の仕方、話しの内容、衣装等々、様々に制約をしてきますから。場所の設定は、初期段階で行ういちばん大切な作業です。ま、遅くなってしまう時もありますけど。
 実際の去年の夏、西日暮里公園で仕事の休憩中、タバコを吸って休んでると、女子高生たちが、一生懸命言葉を発する間も惜しむようにダンスの練習をしてるんです。また熱心にブランコでスカートを翻してどちらが高く上がれるかを競っている女子生徒さんたちがいたり、それを見て、今回の場所は、この公園の夜にしようと決めようと思いました。それに公園だから得たいの知れない人が自由に出入りしてますから、登場人物も出しやすいと思って……、
 ところが稽古の最中、楽しいおまけが出て来たんです。余談なんですがね。舞台の場所を『西日暮里公園』と決めてから不思議な感じに襲われたんです。稽古場で俳優の稽古を見ているうちに『西日暮里公園』は二つあるんじゃないか。実際の西日暮里にある『西日暮里公園』であると同時に、沢田研二の「TOKIO」じゃないけど空に浮かんでいる超都市の公園『西日暮里公園』も併せて見えてきたんです。ぼくだけが感じたことなんでしょうが、これはちょっと不思議な体験でした。今回の作品は作品として失敗は確かに多々あります。けれども現実と空想(夢)の公園とが二重に見えてきた感触は決して悪くない、面白いと思っています。
 
ミルナー巡査部長 『西日暮里公園は二つあるのではないか』とは?
 
 ……ドアがノックされ、サムが温かいお茶を三つ持って、入ってきた。
 
菅 間  余談です。現在の日本でも、大劇場でチェーホフの『桜の園』とかアーサー・ミラーの『セールスマンの死』、イプセンの『幽霊』とか、TVや映画で有名な俳優さんに出演してもらって相変わらずやってます。イギリスではどうですか?
 
ミルナー巡査部長 巡査になって以降は芝居を見る時間もあまりありませんから、
 
菅 間  これは日本の問題としていうのですが、現在、面白い物語を作ることができれば、それなりに面白い舞台が出来上がるかように思えますが、現在面白い物語台本が果たして書けるのだろうか。これは具体的にとびきり優秀な台本作家の誰それが書けばどうにかなるとか、そういう個人や才能の問題で言ってんじゃありません。
 現在の日本で生きているぼくたちの状況からみて、面白い台本は日本に生まれようがないんじゃないかとぼくは判断しています。つまりシェークスピアもチェーホフもアーサー・ミラーも、しばらくはこの日本に生まれてこない。大作家、大台本の時代はしばらくのあいだお預けなにではないか、とそう思っています。
 
運転手サム 「状況」? そんないい方、判んないなあ。判んないです。なんで書けないいんですか、面白い台本? みなさん、面白い作品を一生懸命に書こうと努力してるんだったら、いつかきっと書けますよ。ね、お茶にしない。しましょよ、しましょう。お茶、冷めちゃいますよ。
 
ミルナー巡査部長 サム……、
 
運転手サム お茶に、しようよ、
 
菅 間  ありがとう。日本の台本作家も俳優さんも、みんなそれなりに頑張ってると思いますよ。でも書けないんです。  なぜ、面白い台本が書けないのか。
 
運転手サム なんで?
 
ミルナー巡査部長 サム……、
 
運転手サム お茶、しよう、
 
菅 間  ぼくはイギリスでいうダウン・タウン(下町)に住んでいます。日本の昔からの習俗というか慣習というか、田舎でも下町でも夏になると必ず夏祭りをやります。夏祭りは、神様に五穀豊穣を、農作物の豊饒をお願いするお祭りです。神様を御輿にお乗せして、その御輿を担いで町内を一周するんです。暑いカンカン照りの昼間でも、町内の子供たちは、御神輿や山車の後をキャッキャッ言いながら付いて廻るんです。なぜかというと行く先々でお菓子や冷たい美味しい飲み物を無料で沢山もらえからです。子供たちはみんな夏祭りが大好きです。
 御輿はとても重たいんです。十人やそこらでは担げないんです。交代要員もいれて三、四十人は必要です。現在では担ぎ手がいなくなって、夏祭りが近づくと町内の掲示板に「担ぎ手さん募集中」と掲示されます。でも担ぎ手はなかなか集まらない。昔からの愉しい習俗・慣習も、日本では少しずつ淋しい状態になっています。もちろん東京の大きなお祭りは別です。神田祭とか三社祭とかは。田舎では習俗・慣習はとても大切にされていますから、いまでもお祭りは盛大に行われています。でも東京の下町の小さな町会では、お祭りのそんな次第で萎んでいくばかりです。東京人はいってみれば土地や農作物から離脱しちゃった「根無し草」の「働き蜂」ですから、仕方がないんです。
 でも考えてみれば、当たり前の話で、御輿の担ぎ手の若い男子も、祭りのお握りやお菓子を配るお手伝いをする若い奥さんたちも、みんな仕事やあれこれで忙しくて、お祭りに参加したくてもお祭りに参加する余裕がだんだん無くなってしまっているのが実情なんです。お祭りに無関心であるのではなく、関心があってもそれに裂く時間が持てないんです。なぜ、こんな忙しいのかわからないほど生活が乱雑にならざるをえなくなっているんです。
 もし夫婦にお子さんでもいれば大変です。塾通いや学校選びも家庭の一大事業になるし、夏休みとなれば、旦那さんは家族サービスとして奥さんやお子さんたちを海外旅行にでも連れて行いなかくてはならない。日本人は、始終動きまわっていなければならない働き蜂です。これが日本の普通に生活している人たちの実情です。
 イギリスでは、毎週日曜日の朝は礼拝に?
 
ミルナー巡査部長 もちろん、そうだろう、サム?
 
運転手サム うむ。ミルクとお砂糖、入れて下さい。
 
菅 間  退屈な長い話を聴いて下さって、ありがとうございます。
 なぜそんな話をしたかというと、だれもが一様に関心を満ちたいと思える世代を超えた主題が現在の日本の社会の中で一つとして存在していないんです。全員が各々違う方向を見て働き、忙しい毎日をなんとかやりくりして生活しています。つまり日本では、だれでも『じぶんのことでせいいっぱい』なんです。
 これが、日本では台本作家が大台本が書けない理由の一端だといえます。ドーナツの真ん中に空いた穴のように、全世代にわたって中心というものが一様に見えなくなってしまっているんです。つまり、ほんとうに考えなければならないことを少しずつ見失いかけているんです、ぼくたち日本人は。もちろんぼくもそのれいがではありません。
 難しいことを言おうとして喋ったんじゃありません。実際の生活の上でも、心の生活の上でも、なにが大事、かなにが小事か、取捨選択の仕方がわからなくなっちゃったなあオレは、というじぶんのことを話にすぎません。でもこの状況はまだ長く続くと思っています。
 ぼくのような台本作家や劇の小集団さんたちは、いましばらくは『チマチマとした、だれにも判ってもらえないようなナイナーな作品』を個別的に作り続けるしかない状況といえます。
 
ミルナー巡査部長 『チマチマとした、だれにも判ってもらえないようなナイナーな作品』? それが今回の芝居と、どう?
 
菅 間  ぼくはじぶんの最近の作品を、ご狭いじぶんの周囲からしか発想出来なくなってしまっているということです。そういう意味も含めて、日本の夏祭りのお話しをさせていただいたのです。
 
運転手サム ねえ、ミルナーさん、ちょっと休憩しない。あたしも菅間さんに訊いてみたいこともあるし、ちょっと休憩しよう。休憩します。菅間さんも疲れてます。疲れてんだから。休憩。
 
ミルナー巡査部長 そうしますか、
 
運転手サム この人、まじめを絵に描いたような人で、すいません。はい、休憩です。
 
 
 
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      ★ この稿、続く。       ★ aboutの頁へ戻る。
      ★ 参照文献=故吉本隆明氏の「解体論~マス・イメージ論」。
      ★ 参照文献=村上春樹氏の「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」より。