日付:2020年1月12日 

 「じぶんのことでせいいっぱい」について (4) ~

 

37回公演「じぶんのことでせいいっぱい」の「S信用金庫の男」を演じる村田与志行 

 

 
      4、登場人物について
 
 
 
 ……昨日は少し喋りすぎたようだ。
 ……仕方がないんだ。ぼんやりと考えていたことを喋ることで追確認しているんだから。
 ……三日目の朝だ。
 
 
   § 1  「物語」の壁を超えようとする登場人物たち
 
 
 
MILNER  『メタルマン』についてお話しをうかがいたいのですが……、
 
菅 間  はい、
 
MILNER  『メタルマン』面白かったです、ぼくは。他の登場人物に較べて異色な感じがしました。『メタルマン』やその他の登場人物も含めて菅間さんの人物の造型化、人物イメージの作り方を教えていただきたいんですが。またなぜ彼の登場が芝居に必要だったのか。聴かせて下さいませんか。
 
菅 間  登場人物の造型という面ではほとんど無意識の作業なんです。ぼくの心のなかに既に存在しているポテト堂の俳優さんたちのイメージがぼくの指を勝手に動かすんです。だからぼくもどのようにしてそういう人間像を作ったのかわかりません。でも昨日のミルナーさんが『ひとはじぶんの話を聴いてくれる友(他者)はやっぱり欲しいし、必要としているんです』と指摘して下さいましたように、その線上で人物像を造っていることは確かです。
 
 具体的にいえば詩とか小説とかから人物像を盗んでくるんです。たとえば「闇夜の提灯」はお話しした通り詩人・小説家の故木山捷平著の「苦いお茶」という短編から「捷吉・しの」は盗んできました。二人は夏の夜道をこんな感じで会話しながら歩いてるんだろうなって感じで書きましたし、「メタルマン」は村田与志行さんの俳優としての奇妙さをそのままぼくがお借りして書いただけです。村田さんみたいな奇妙な人物が夜中の公園でウロチョロしていてもちっとも可笑しくはないんです。
 
MILNER  村田与志行さんは実際に奇妙なおひとなんですか?
 
菅 間  ぼくの身の回りにああいう人物は彼しかいません。たぶんミルナーさんの身の回りにはいないと思います。
 
MILNER  なるほど俳優さんの人柄を借りて造型する。物書きの作家さんなんかは『登場人物に生命を与える』といういい方をしますね、その点、菅間さんの場合どうなんでしょうか?
 
菅 間  ぼくは違ういい方をします。「闇夜の提灯」の「捷吉・しの」、「メタルマン」にしても、舞台の幕が降りてもそのままのイメージで現在の繁華街を歩いていてもいっこうに可笑しくはないんだ、そういうイメージで描き切ることができればいいんだと思って書いています。
 でもね、情けない駄台本でも四十年以上も書いていると奇妙な感じに襲われることがあります。
 
MILNER  それは、どういう?
 
菅 間  登場人物は、台本書きに生み出されれた瞬間から舞台という限定されたフイクッション世界で生きられる、これ、原則ですよね。けどね、彼らが台本書きに生み出されれた瞬間から、彼らはじぶんの孤独や秘密を彼らじしんが勝手に生み出して物語の壁を超えようとしているように思えるんです。台本書きの知らないうちにです。ぼくたちが、ぼくたちじしんの宿命を超えて生きようとしていると同じように。
 
SAM  なに、それ、ちょっとぜんぜん判んない。だって登場人物は台本書きさんが生み出したんでしょ。だから存在してる。登場人物が台本の物語を超えらることなんかできるわけないじゃないですか。
 
MILNER  サム、
 
SAM  だって判んないんですもの、菅間さんのいってることが。判るんですか、ミルナーさんは?
 
MILNER  最後まで、菅間さんのお話を聴きなさい。トイレ掃除をするか?
 
菅 間  見当外れの喩えになっちゃうんですけど、サムさん、ご両親はご健在ですか?
 
SAM  はい、なんとか元気で生きています。
 
菅 間  思春期にご両親に反抗心を抱いたことはありませんか。「こんな家、家出してやろう」とか?
 
SAM  あたしの一族郎党、ほとんどは宗教家です。思春期はイヤでイヤで仕方がなかったです。両親の言うこと花崗岩より堅くて、石部金吉に金(かね) の兜(かぶと) を被せたような両親で、
 
MILNER  わたしも、思春期には人並みに両親に反抗した口ですね。
 
菅 間  ぼくもです。ところでミルナーさん、「メタルマン」は面白かったですか?
 
SAM  全身銀色の衣装を着ていた銀色男のシーン! 可笑しかった!
 
MILNER  あの場面はまったく意味不明で面白かったです。バカみたいと思いながら楽しみました。
 
SAM  それと、思春期の話とどんな関係があるの、菅間さん?
 
 
   § 2  そう「フランケンシュタイン」みたいにです。
 
 
菅 間  「S信用金庫の男」は想像の産物に違いないです。「S信用金庫の男」は書き手から与えられて舞台上での生命と人格を得る。けれども彼じしんは物語に帰属していながら、物語から自在に離れても生きていける一個の独立した存在を手に入れようとしているんじゃないでしょうか。劇場の外の夜の街や公園を銀色の衣装で自由に歩きたいと、
 
SAM  「フランケンシュタイン」みたいじゃない?
 
菅 間  登場人物は等しく、すべて「フランケンシュタイン」です。
 これは、ぼくたちが思春期にじぶんの孤独や秘密を握りしめて親元や生まれた地域から離れたがったことがあったように、登場人物も同じことをしたいと考えているんです。もちろんぼくの登場人物の存在への過度の錯誤的な妄想です。言葉を換えれば、ポテト堂の劇構造の単一性、単層性の構造自体がそのような馬鹿げた妄想を許容しているんです。前回も今回も、ぼくらの舞台には極端にいえば話を聴いてくれる人と、話をしたい人、その二種類の人しか登場しませんから。
 でもこの「妄想」はとても大切なことをぼくに教えてくれました。
 
 
   § 3  現在の物語の<起・承・転・結>の行方
 
 
菅 間  長くなりますが「メタルマン」の「七景・S信用金庫の男」の場面を<起承転結>の四つに区分して挙げてみます。
 
 
  <1>……<起>
 
        花道より、奇妙な格好(全身銀色の衣装)をしているS信用金庫の男、笑いながら現れる。
        手にはカバン、封の切っていないカレー味のカップ麺。
  信金  (突然、大声で、踊る)……キンキンキン、キキンコ、キーン! ……カンカンカン、カカンコ、カーン! ……キューンキューンキューン、キュキュンコ、キューン!
  二人  (顔を見合わせ、微笑)……?
  信金  ……夜中の西日暮里公園は、面白いよォ、顔を出してヨ、お月さん。コンビニで買ったカップ麺、お湯無しで、一人でバリバリ囓る、出世の見込みの断(た)たれたサラリーマン……、
  二人  ……?
  信金  キンキンキン、カンカンカン、キューンキューンキューン、全部、金属音。金属、大好き。……「メタル・マン」。……人類が、金属をこの手に握るまで、どんに苦労したことか……、
        二人、舞台から去ろうとする。
  信金  待て! 話の途中だ! 常識知らず!
  二人  ……?
  信金  ……じぶんの小水で顔を洗っている死に損ないの汚い爺ィ! 月の 輪熊の生まれ変わりのような熊婆ァが「ペニス、ワギナ」、発射寸前のイキ顔で囁きあっている。……イク、イク、イク、イクーッ! イカの産卵じゃねえや、……死ね! ……ねえ、お月さん、出てきてヨ、日本って平和でしょう、(※台詞、現場優先)
  二人  「キンキンキン、キキンコ、キーン」! じゃ、
        信金、カバンとカップ麺を舞台の端ッコに置き、
  信金  待て! このセリフ、オレに三度、言わせたら、お前ら死ぬぞ!(カバンから木のY字型パチンコ)……出世の途を断たれた場末の信用金庫の行員が、なぜ世界でいちばん怖ろしい人間といわれているか、教えてやろう……、
  二人  ……?
  信金  お前らのことはよく知ってる。毎週末、ここで下手な踊りや歌で大騒ぎしてるアホバカ連中の仲間だ。放置自転車に違法駐輪のラベル貼りの爺ィ。ここいら辺の公園の掃除を担当している婆ァ、便所、もっとキレイに掃除しろ、手抜き婆ァ!
  高橋  (信金へ)どうやって、じぶんの小便で顔を洗うんだ?
  美代  (高橋へ)もう行って、
  信金  (高橋のこと)お前、臭い、シィーッ!
        高橋、舞台奥へ、消える。
 
  <2>……<承>
 
    ……この場面が書かれていない。
 
  <3>……<転>

 
  美代  あの「メタル・マン」さん、(信金の顔をじっと見て)……あたしのこと、知ってるはずです。いつも一番後ろで、月の輪熊の縫いぐるみが地団駄踏んでるみたいな踊りしてるバカ婆ァ。
  信金  ……
  美代  いままで一度もお話ししたことないけど、あなたも、グループのお仲間! なにか、ご用ですか?
  信金  ……はい。「用」と言われると、そんなものはないといえば、ないんです。聞こえてしまったんです。「終電が終わった後、西日暮里駅へ」。で、声をお掛けしちゃったんです。判断のつかないうちに、
  美代  「キンキンキン、キキンコ、キーン!」……、楽しいリズム……、
  信金  オレは、いったい、なにしに出てきたんだ……?
  美代  ……?
  信金  (夜空に向かって叫ぶ)……そんなことしたって、ムダだ! 怪我するだけだ!
  美代  ……
  信金  でも、なんの役にも立たない、他人からみてバカらしくて、空虚なことの一つも、じぶんで作り出さなきゃ、生きててもつまらない、
  美代  ……
  信金  ……信金に貯金している爺ィや婆ァの預貯金から、一顧客あたり、一万、二万円と判らないようにセコク小金チョロマカシしてたら、監査でバレちゃって、使い込んだ百万は退職金前払いで支払うことで、刑事事件は免れました。一生、自転車乗って飼い殺しの集金係、
  美代  ……
  信金  (夜空を見上げ)……人工流れ星!……(泣き、鼻をかむ)……すいません、人前で泣いたりして……、
  美代  ……?
  信金  今年の一月、種子島から打ち上げられたイプシロン4号。いっぱいお金のかかる宇宙での実証実験のできない街場の小さなベンチャー企業のために、JAXAが無料でイプシロンを提供しました。
  美代  イプシロン……?
  信金  この水の国日本で、いまペットボトル入りの水は、缶コーヒーを超えて、いちばん売れている飲み物。社会は、この40年で、信じられないほど大きく変わりました。
  美代  ……
  信金  四〇年前、ぼくが子供の頃、九州の小倉で夜空を見上げた時、急に流れ星がサァーッと山の彼方に消えて……、母親は、流れ星に「願い」をかけると、その願いが叶うんだよ、と教えてくれました。時代は大きく変わり、いつの日か、東京の夜空を、赤や青や黄色、色とりどりの人工の流れ星が降る。わたしは、願いをかける……、
  美代  ……見てみたい、
 
  <4>……<結>
 
  信金  ……吉備団子の桃太郎にも、雉(きじ)、猿のお供がいます。草履持ち、提灯持ち、なんでもやります。あたし、西日暮里駅への襲撃、連れってって下さい。お願いします! ……お願いします。
        小さな沈黙。
  美代  ……
  信金  ……(「これは」)景品のタオル、使って下さい。
  美代  ……
      信金、荷物をまとめ……、
  信金  ……来週の末、またダンスご一緒しましょう! ……フレッ、フレッ、婆ァア! ……ご幸運を!
  美代  ……
        信金、淋しそうに花道から消える。
        美代、舞台奥へ、消える。
 
菅 間  「S信用金庫の男」の場面を一つの全体として考えてみます。
 この場面の(2)の<承>の部分が欠落していて書かれていないんです。これが今回の台本の重要な第一の欠陥です。なぜ<承>の部分が書かれていないことが重要な欠陥となるのか。
 俳優だけではなく実は観客も一過的ではあるにせよ、「S信用金庫の男」が台本の物語の軌道線上で予想通りに演じられる演技表現より、彼が壁を超えざるをえないイメージと超えていく彼の姿を見てみたいのではないでしょうか。つまりぼくたちがほんとうに触れてみたいのは、物語の軌道線上で演じられる人格でありながら、彼じしんの中にある現在を生きる上でどうしようもなく生じてしまう彼の心の空白感の表出ではないでしょうか。登場人物とは観客の反転されたネガ像なんですから。
 
 こんなことを公演終了後に書いてもすべて泣き言ですが、「S信用金庫の男」の<承>の部分を思いつくままいくつか補ってみます。
 (1)彼は自慢の喉をもっていて、クレイジーケンバンドの「タイガー&ドラゴン」を歌い身体を激しく揺すって踊ってもいいし、郷ひろみの「よろしく哀愁」でもOKです。
 (2)十年くらい前に流行ったペピーノ・ガリアルディの「ガラスの部屋」を流して『……ヒロシです』という科白を『……ムラタです。……年収350万円前後の男性を対象にしたお見合いパーティーへ誘われ行ってきました。……いつまで経ってもぼくも眼の前のイスは空っぽのままでした。ビール飲み過ぎて、その場で吐きました。……ムラタです。ムラタです……、』でもいいし、
 (3)稲垣潤一の「どうぞこのまま」を流して、破顔一笑の小物語を語ってくれてもいい。
 貧しい想像力しかいまも持てないんですけど、真剣にこの<承>の部分で彼の心のなかにぽっかり空いた穴を、つまりぼくたちの心のなかに空いた空白感をなんとしても造形しなければいけなかった。
 なぜなのか。<承>の部分の欠落を補おうとする試みは、彼(=ぼくたち)が<現在>へ入ろうと試みるとき<現在>から弾き返される姿勢そのもので、それは最少の劇となりえるものだからです。
 
 言葉を改めれば、現在を生きている一般の普通の人びとが<現在>の世界に対して必然的に執ろうとする無意識の防御の姿勢、越境の姿勢、そういイメージが舞台上で存在感豊かに作り上げられることが<現在>では必要不可欠な芝居の課題であり、そこに<劇>は生まれる可能性があるのではないでしょうか。だから彼をもっともっと空疎な表出に向かうようにしなければいけなかったはずだし、身体を張ったバカげたパフォーマンスとして、阿呆な場面として、楽しい場面として、です。
 村上春樹氏の「羊をめぐる冒険」は主人公のそうした心の空白から出発し、様々な事件に巡り遭い、主人公はまた元の空白に戻るという主人公の試練を重層的な冒険譚として見事に描ききっていますが、ぼくらにはそういうものはとても書けませんから、空白感を空白感としてあらわすだけで精一杯です。
 
 
   § 4  書き手に必要な要素は書き手の心のなかにあるデカダンス
 
 
菅 間  現在、芝居は面白ければそれでいいのかという不安を芝居屋のだれでもが抱えていて芝居を作っています。これは確かなことです。書いていても不安で不安でたまりません。でも心の空白感を力ずくでも固有なカタチとして創りあげ突破しなければ<現在>へは参画できないでしょう。あるいは山肌からゆっくり沁みだして出てくる湧き水のように。それが空振りであろうと。
 
 主情的に、ちょっとぶっちゃけいっちゃいますが、……人生の半分以上を使ってじぶんがやってきたことなんですがすべてムダだった。いままでも、これからも、ロクな仕事なんか出来るわけ絶対にないんです。けどじぶんが抱いている空虚さや空疎さ、口籠もってしまうことや、バカらしさ、非道徳的な反社会的なこと、そういう阿呆らしさがそれなりに台本に表象されていないと、それこそぼくの芝居なんか無くてもいいものになっちゃうんです。書くことなんかなんにも持っていないこと、それはそれでOKなんです、みんなそこから出発するんですから。けどじぶんの心のなかにポカンと空いた穴みたいなものをそれなりに表出しきるだけの力を維持し書き出さないと書く意味なんかほんとうに無くなっちゃうんです。じぶんの心の中にあるデカダンスをしっかり把かまえて表に出さなくては、なにもしないのと同じことになっちゃいます。
 
MILNER  ……わたし思うんです。わたしはクレイジーケンバンドの「タイガー&ドラゴン」の歌も知りませんし、「ガラスの部屋」も、稲垣潤一も知りません。それらがどういう場面になっていくのか想像がつきませんが、もし仮にそういう場面が面白おかしく仕上がったとして、その面白おかしさの背後に埋められた菅間さんがいまお話しして下さった「心のなかにポッカリ空いた穴」ですか、そういうメタフィジカルな場所を果たして観客の皆さまは了解してくださるでしょうか。本音のところ、そこら辺、どうなのでしょうか?
 
菅 間  判っていただけないと思います。それじゃいけないんですけどね、仕方のないことだと思います。けど祈るような気持ちでわかっていただきたいと願って場面を書いていますし、作っています。
 
SAM  淋しいじゃん、それじゃ。それでいいの?
 
MILNER  失礼を顧みず質問しますが、お客さんに芝居の内容が判らないのは、菅間さんの独りよがりの芝居とならないんでしょうか?
 
菅 間  それは、ただもう、芝居を判っていただけるように努力する、頑張るしかないというだけです。とても怖いです。でも怖がっていても仕方がないんです。やるしかないんです。
 今回の「じぶんのことでせいいっぱい」はハッキリいって台本としては失敗作です。俳優さんはそれでも行けるところまでは行ってくれました。けど負け惜しみではなくて失敗して良かったなと思っています。
 
MILNER  それは「メタルマン」の場面の<承>の部分が書けなかったからという意味ではなく、作品として失敗作ということをお話しになっておられるんですね?
 
菅 間  「光合成クラブ・Ⅱ」には<私事>が抜けている。<私事>を書かなくてはと思ったんです。書けるとは思わなかったですけど、とち狂ったとしかいいようがないですね。足りない部分があり、書かれてない部分があり、それを補いたいと思ったばっかりに情況を完全に見誤ったんです。次回も懲りずに<私事>を書こう思っています。けれどもそれにはかなりの準備と工夫が必要ですね。<私事>が<私事>でありながら<私事>でさえ無くなってしまう会話が。その書き方がきっとどこかにある筈です。
 
 ミルナーさん、いま芝居は<受け身>でなくては成立しないんですよ。なぜ、いま<受け身>でなくては芝居が成立しないのか、ぼくにも本当のところはよく判っていません。でもたぶんぼくが言っていることは、ぼくが書き、演出する芝居には関してだけは当たっていると思ってます。
 
MILNER  それは昨日話して下さった『チマチマとした、だれにも判ってもらえないようなマイナーな作品、それも<受け身>の作品』という意味ですね?
 
菅 間  公演終了後、生活の現場で覚醒を余儀なくされた光景にいくつもぶつかりました。「ああ、そうだったのか!」という場面にです。サムさんの前ではちょっといいにくいんですけど、足を十本ほど無くしたダンゴ虫より歩みの遅いバカが喋ってることだと思って聴いて下さい。
 
 
   § 5  淫らで楽しい白昼夢……、
 
 
 ぼくが見た淫らで楽しい白昼夢は彼らには喋らなかった。その方がいいと思ったからだ。
 <起承転結>の<起>と<結>は書く必要をいまは求められていない部分の相当する。なぜなら誰もが金太郎飴みたいにどこを折っても同じような顔をして、同じような服を着て、同じような食べものを食べて、同じような夢を見て、生きてるんだから<起>も<結>も書かれなくともお客さんにはお見通しなんだ、と。二人にはそう話しただけだった。
 
 
 ……夏の夜、西日暮里駅の改札口近くにぼくは不法駐輪を取り締まる仕事で立っていた。
 三十代半ばのきれいなお化粧をしている女性と四十を超えている背広姿の男性が軽い言い争いをしている場面に遭遇した。たぶん男性が女性をホテルに誘っているような感じの会話だった。女性はその筋の女性ではないようなきちんとした身なりをしていた。西日暮里駅の周辺にはラブホテルが鶯谷ほどではないがたくさんある。女性は男性に会話の終わりを告げるように、
 『……今夜は大人しく家へ帰って楽しいお酒を呑んで、楽しいオナニーをして、一人で朝までゆっくり眠りなさい』といって改札口へ消えて行った。女性は笑みさえ浮かべていた。
 改札口近くにいた駅員さんも数人の乗降客の人たちも、ぼくも一瞬立ち止まり凍りつきました。なんて凄い素晴らしい会話なんだろう……、
 
 実は白昼夢ではなくホントに西日暮里駅の改札口近くでぼくが遭遇した光景だ。いまでもその光景が離れず眼の奥に残っている。
 二~三日、落ち込みましたね、ぼくは、ほんとに。
 ぼくが考えていた女性像も微塵に打ち砕かれたし、社会像も木っ端微塵にぶっ飛んじゃった。
 これは混雑する西日暮里駅の生活の場面のひとこまだが、女性は男性に較べて一歩も二歩も踏み込んで、素裸で生きてるなあ……、
 女性がそれだけのことをいっているのに書くという行為でその女性に匹敵する台本をお前は書いているのか……、
 いや違うんだ。まったく違うんです。
 この光景をそう解釈したら現在の情況を大きく見誤ってしまうことになるんだ。男性に伍しはじめたのは女性の方で、男性はただたじたじで、オロオロしたりするほか、やれることなんかいまはなにもないんだ。この消極性でOKなんだ、いま大切なことは。
 ま、白昼夢ということにして下さい。
 
MILNER  菅間さん、大丈夫ですか、菅間さん……、
 
SAM  菅間さん、大丈夫ですか、菅間さん……、
 
 
 …………気がつくと、ぼくはじぶんの家の二階の仕事部屋の机にうっぷして寝ていた。
 …………村上春樹さんなら「やれやれ」というところだろうし、手塚治虫さんなら「ひょうたんつぎ」を描くところだろう。
 ぼくはただでさえ難解な吉本隆明さんのとりわけ難しい著作『初期歌謡論』を読んでいて、難しさのあまりこれを理解するのはとても不可能だ、と眠ってしまったのだ。
 
 
   § 6  <全体的な喩>とはなにか?
 
 
 開けられていた頁には、次のように書いてあった。
 この文章だけは少しわかったような感じがする。もちろん、気のせいなんだけど……、

 
 和歌形式が定着したあとで、和歌形式にならなかったらけっしてあらわれなかったはずの<喩>が、内在的にあらわれた。内在的にという意味は、上句と下句の関係からではなく、表現の構造自体からという意味であった。これは、和歌形式がすでに作者たちにとって先験的なものとみなされたために、形式の内部にあらわれた結瘤ににている。形式が先験的なものとおもわれたとき、詠むことの自在さが、特有の喩法うみだした。うみだしたことがはじめにあって、解釈することはあとからやってくる。そういういい方ができるのは、和歌形式がつくるものの内部に定着した証拠のようなものであった。すくなくとも『万葉集』の短歌謡は、ここまでの作品を摂取することができていた。(中略)
 
 
   ( d ) 葛飾の真間の浦廻(うらみ)を榜(こ)ぐ船の船人騒ぐ波立つらしも
( 『万葉集』巻十四・三三四九 )       ( e ) 信濃なる須賀の荒野にほととぎす鳴く聲きけば時すぎにけり
( 『万葉集』巻十四・三三五二 )   
 
 表現されたところだけみれば、誰にもたんなる叙景あるいは叙事の歌謡とよめるものであった。そして、たしかにある意味ではそう理解してさしつかえなかった。ところが、この類型は謎がおおく一筋縄ではいかない。初期の「アララギ派」の歌人たちは、万葉復興をとなえたとき、散文における写生文とおなじように、これらの短歌謡に、客観描写の<声調>の卓抜さを読みとった。そして写生を、もっと微細にし彫りを巧みにしていった。たとえば、長塚節が「馬追(うまおい)虫の髭のそよろに来る秋は眼(まなこ)を閉じて思ひしるべし」とうたったとき、馬追虫の長い髭をかすかにふるえさせながら吹く秋の風という描写に、細密画をみるような巧みさを表現した。しかし、この微細な名人芸のような叙物の歌が、何ともいえない精神の空白と、空虚さを感じさせた理由はあった。馬追虫の髭をふるわせて吹く秋風というような、微細な虚構にまでつきつめながら、一首の背後にかくされているはずの叙心の生々しさが、うち捨てられているからである。たぶん初期のアララギ派の歌人たちは、万葉集の短歌謡のうち、本来的には<全体喩>とみなすべき表現を、たんなる叙景や叙事の客観描写として読んだ。多少の危惧は感じるが、この種の作品は客観描写の歌謡とみなすべきではなく、一首の全体を<喩>とすることで、意味の中心を表現の背後に移してしまった作品ではなかったか。
 
 (d) の歌謡から、<葛飾の真間の入江をこいでゆく船の船人たちがせわしげに動きまわり、声をあげて騒いでいるのがきこえる。きっと高波がはげしいからだろう>という大意をうけとれば、叙景あるいは叙事の歌謡であった。しかし、この歌謡はたぶん、そんな光景を客観描写しているのではない。作者は、そういう着眼の仕方そのものによって、荒びたじぶんの心を叙している。けっして象徴としてではなく、直に荒びたじぶんのこころを描いている。ただ、なぜ作者は心をあらげているのか、その具体的な理由を知るすべがなくなっているというだけだ。
 
 (e) の歌謡でも、<信濃の須賀の荒野にほととぎすが鳴いている。その声をきくと時がすぎて夏となった(あれからずいぶんとたってしまった)>ということではないような気がする。ありのままの叙事のようにみえるこの短歌謡の背後には、過ぎてはならぬ生々しい心があり、一首の表現はその潜在した心の<喩>であったのだ。この心はすでに具体的にどういうことかさぐる手がかりがない。そのためこの種の短歌謡は、客観的な叙景や叙事のように解釈された。
 
  ★故吉本隆明著「初期歌謡論 歌謡の祖形 137頁」昭和56年6月河出書房新社刊

 
 ぼくの心許ない心の『空白』についての根拠はこの文章だけだ。
 
 
     ★ この稿、終わり。
 
 
   ★★★★★★★★★★ ☆ ★★★★★★★★★ ☆ ★★★★★★★★★★
 
 
    ★ 補遺ノオトを執筆中。     ★ aboutの頁へ戻る。
    ★ 参照文献=故吉本隆明さんの「初期歌謡論」より抜粋 
    ★ 参照文献=故吉本隆明さんの「「マス・イメージ論」の「喩法論」~」より抜粋