日付:2019年9月10日 

 補遺「じぶんのことでせいいっぱい」について (5) ~

 

「じぶんのことでせいいっぱい」の最終シーンでDA PUMPの「U.S.A.」を踊る俳優たち (5) 

 

 
      5、あとがきにかえて
 
 
   § 1  深夜に読み、学ぶしかなかった
 
 
 恋愛は語るものではなく実際にするものだ。映画も芝居も同じで何が愉しかったかつまらなかったかと語るより見て楽しむものだ。その禁を破って思いつくままにつまらないことをくどくど書いてしまった。
 でも、こんな駄文でも書かなかったら忘れたまま通り過ぎてしまって心から消えてしまうちがいない問題に二つ、三つにふれることができたので、ま、書いて良かったとするほかないとじぶんでは思っている。ランダムに挙げてみます。
 
 菅間がまた、いまでは誰にも相手にされないような古証文を持ち出してバカなことをいいはじめてるといわれそうだが、三十年ほど前になるが故吉本隆明さんと劇団「転位・21」の山崎哲さんの対談だった思うが、吉本さんが「俳優さんが科白を憶えて、身体の動きも憶えてしまえば、それ以上稽古の必要は無いんじゃないんですか? なぜ、それ以上稽古をやるんですか」という感じの質問を山崎にしていた。
 この時の山崎さんの応えを残念ながら失念してしまったが、これはじぶんにも問われている質問だと思い「稽古」とはなんだろうかとかと随分思い悩んだ時期があった。その時のじぶんは独り言のように「稽古場の稽古」とは推敲と科白や行動をしっかりと身につける時間の場所だくらいしか応えられなかった。いまでもその応える深めることはできていない。今度の「じぶんのことでせいいっぱい」の反省文でも、その質問の応えを吉本さんの『ひきこもれ』という著作から引用させてもらっただけだ。

 テレビのキャスターだって、皆が寝静まった頃に家で一人、早口言葉か何かを練習していたりするのではないでしょうか。それをやらずに職業として成り立っていくはずはない。
 家に一人でこもって誰とも顔を合わせずに長い時間を過ごす。まわりからは一見無駄に見えるでしょうが、「分断されない、ひとまとまりの時間」をもつことが、どんな職業にもかならず必要なのだとぼくは思います。  (★ 2002年12月大和書房刊・吉本隆明著「ひきこもれ」) 

 ところで、吉本さんの質問は、やがて芝居屋の心のなかで次の問題を生んでいくように思えた。「芝居が、演技が上手くなるとはどういうことか。芝居が、演技が上手くなる必要性は、どこからやってくるのだろうか」という問いへ。ぼくは設問はもっと幼く「なぜ、芝居は、演技は、上手くならなければいけないだろうか。下手であってはなぜいけないのだろうか」という言葉になり、この問題に長い間思い悩んだ。
 ぼくの応えはああやふやだ。
 ひとたび芝居を作って仕舞えば、作った本人がどう思うかとは関係なく、作られた芝居は芝居の表現の価値の戦線の時間に参入してしまう。これは芝居を作った本人の意思の問題とはまったく関わりなくだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 一つめは、<文体>というものは確かに存在するもんだなあ、と深く思い知らされたことだ。
 <話体>と<文学体>の相違は常識的に理解はしていると思ったが、そんな軽いものではなかったことを思い知らされた。
 以前にも評論文めかした主観的感想文は時々書いたりしていたが、六、七年前からそんな文章を書かなくなって、というより書けなくなって、感想文を書くことをやめてしまった。理由は簡単でじぶんの見た芝居の善し悪しをいってみたり、じぶんなりの芝居についての寸感をいくら積み重ねても、じぶんにとってもまた読んでくださる人にとっても、なんにもならないと思ったからだ。
 でも、どうしても今回の『じぶんのことでせいいっぱい』についての感想文は書いてみたかった。台本の書き手としても演出としても、書かずにはいられない心的な情況へ陥ってしまって、そこから這い上がれなくとも、陥ってしまったことの認知を言葉にしなくてはダメなんじゃないか思った。少なくとも四ヶ月も毎夜共に暮らした俳優さんへのそれが礼儀だし、謝意になると思ったからだ。
 だが書きはじめて見ると、初手からどのように書いたら良いか判らなくなってしまっていた。なによりも書こうとする全体について構想性を持てなかったから、頭も尻尾もないイメージの小文を煉瓦を一つひとつ積み重ねる方法しか思いつかなくて、書き方として仮想の対談という体裁を選択せざるをえなかった。この理由も単純で、いつでも話題の転換ができること、言葉の柔軟性を保てると思ったからだ。実際に書きはじめてみると、とんでもない選択をしてしまった思った。
 フォイルさんと話している場面の2章のお終い頃に故吉本隆明さんが「中流意識」について語る部分を抜粋掲載させていただいた。ただぼくは写字しているだけなのだが、「対談」とはかくの如く凄まじいものであるのかと驚いてしまった。一期一会とはよくいったもので、吉本さんは中上健次さんや三上治さんに向かって話しているのだが、対談相手のお二人に導かれながら、視線は彼らの頭上を遙かに超えてなにか巨きなものに向かって語りはじめていて、真剣勝負みたいな感じがした。それでいて、お二人に対するフォローを決して忘れてはいない。
 ぼくの書いた文章は、話すように書く<話体>でもなく、書くように書く<文学体>でもない、その二つ凄まじさを逸れて、大量の水で薄めたみたいな文章で、おまけにじぶんの話に都合の良いような導線で書いている。こんな中間体ではダメだと思いながら、でもこれしか書けないくてもいいから最後まで書いてみようと思いながら書いてみた。書くことは、遅まきながら凄まじいものだと痛感した次第だ。
 でも書きはじめてみて、判ったこともあった。書くことの<目的>といってしまうと単純化しすぎる感じもあるが、でもそういうより仕方がない感じがする文章がある。
 それは、アングラ演劇の旗手たちの書いた一部分の文章だ。鈴木忠志さんや太田省吾さん、金杉忠男さんたちの演劇批評文だ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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      ★ 参照文献=故吉本隆明さんの「初期歌謡論」より抜粋 
      ★ 参照文献=故吉本隆明さんの「「マス・イメージ論」の「喩法論」~」より抜粋