日付:2023年1月17日
凡庸な台本作家兼演出の稽古場ノオト。(1)台詞の文体
☆「水辺にて」のダ君とツ君の遊びの場面。左・ツ君(津田タカシゲ)、右・ダ君(大間剛志)
去年(2022年11月頃)の「水辺にて」の稽古中に、俳優さん全員へLineで送った文章の意味や意図を変えないで若干訂正しながら再録します。
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津田さんへ……、
台詞について2、3、初歩的なことを書きます。そんなこと判ってるわいと笑いながら読んで下さい。
(1)台詞の掛け合いのことですが、相手方の台詞がなければ、あなたの台詞が出せない箇所、同様に逆の場合もありますよね。そういう箇所、沢山ありますよね。
例えば「突然、怒り出すんだから」という台詞は、あなたと大間さんとの長い付き合いの中から、あなた(=ツ君)の本音がふと独り言のように湧いて出た感じのところですが、でも、それをリアル(心理的)にとって、小さな声で演じることは、現在のぼくらの演技力の水準では不可能なことのように思います。明確に他者(この場合、他者は大間さん一人ではなく、観客という大前提の他者を含むものと考えます)明確にギリギリのところで、大間さんと観客に届けられる範囲の声が必要で、その声を捜してみて下さい。これは、芝居というフォーマットが抱えている矛盾の一つです。大きい声で言う必要はありませんけど、大間さんと確認をとってみて下さい。
(2)声の大きさや質感によるメロディについて。具体的にいうと、「声にオレらの人生体験貼りついてっから……渋い!」という台詞は、声の強弱や流れから、やがてやってくる二人の「なぜ……」へと結びつられる序奏(助走)だと考えてくれませんか。
「オレ等の歌、凄い」から「なぜ」までにいたる台詞は一連の会話の話題<遊び>なんだと考えてみて下さい。ぼくはその話題には心理的な解釈は不必要だと思っています。歌で言えば、小さな話題の<遊び>とその<落としどころ>にどう向かっていくか、それだけに集中すればいいと思っています。大間さんと話し合ってみて下さい。
(3)2人で川に向かって叫ぶ台詞ですが、2人で台詞が合わないのであれば、「オーイ」と「そっちはどうだ」、一人一人に分けてしまってはどうでしょうか。
(4)津田さんと大間さんが埋めていないところを一つだけ挙げれば、ト書きの「泳ぎを止め、真剣な顔になる」の箇所です。心理的に考えても、何も出てこないと思います。身体眼の動きを楽しみで探ってみて下さい。
●会話の台詞は、二人で作る共同作業の箇所が沢山あります。一つ一つではなく、一連の話題を一つのグループとして考え、どこに落としたいか、どうしたら二人で楽しめるか、そこいらへんとこを大間さんと当たってみて下さい。
細かいことをかきましたが、多分、津田さんと大間さん、面白いです。だからぼくの勝手をいいました。勘弁して下さい。
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<1>意図の表現と無償の表現
上の文章は、稽古場のなかで演出家と俳優さんたちとが稽古場での稽古の現状を、一緒にあれこれと悩んでいるとき、わたしなりの意見(演技構成の仕方、表現内容)についてLINEで俳優さんたちに書き送ったメモの一つですが、公演後、時間をかけてそのメモをもう少しわかりやすい言葉で補筆して、以下の文章を作りなおし、HPにUPしたものです。(……それでもやはり解りにくいと思いますが)
当然、このメモは稽古場で声を出し、眼前で動いてくれている俳優さんの存在、
その姿を毎日見ている稽古場に控えている他の俳優さんたち、そういう環境のなかでおこなわれた固有の台詞や雰囲気から切り離してしまえば、つまりわたしたちの稽古場を離れてしまえば、誰にでも通じる演技表現の一般性など(わたしの演出の自己解説文のこと)もっていないことを記していおきます。
今回の「水辺にて」でも、わたしは人間の葛藤ドラマなんて書いていません。そんな難しいこと書けません。わたしが書いているのは、夕方から夜のかけての川のほとりに出没する人びとの凡庸だが奇妙で可笑しい人間風景です。それでは劇(ドラマ)には成りえないときっと言われるに違いないと思いますが、それは、そのまま言ってくださったご本人へお返しするしかありません。
大間さん(ダ君)と津田さん(ツ君)が二人で一緒にいること自体が、相互的に二人の楽しい自己救済の時間となっていく、そんな感じで台本を書くことができれば、それがわたしの希望です(二人だけの浸透性と親和性)。で、少しだけどね、そんなわたしのバカな希望は、彼ら二人の内緒ごとみたいな演技に現れ出てきています。どうかもっともっとバカ同志の内緒ごとの秘め事演技を見せて下さい! 実に楽しいです。
極端にいえば、わたしにとって芝居の究極の目的は、自己救済です。相互(じぶんと相手)の浸透力と親和性のかかで、この世に生きているじぶん、目の前の他社を慰めたい、それだけのことしかわたしの頭にはありません。わたしは、そういう演技表現を作りたいと、見たいと思って台本を書いています。
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津田さんへと大間さんへ……、
台詞について二、三、初歩的なことを書きます。そんなこといまさらいわれなくとも判ってるわいと笑いながら読んで下さい。
(1)台詞の掛け合い(声の質感の感想)のことですが、ごく素朴にいって相手方(ダ君)のあなた(ツ君)への台詞の呼びかけの言葉が声となって出てこなければ、当然、あなた(ツ君)の反応の台詞は声に出せない。同様に逆の場合もありますよね。じぶん(ツ君)の台詞が無ければ、相手(ダ君)はなにも言うこともない箇所、台本にはそういうこと(相手方の反応を聴きたいとか見たいとか、またじぶんの気持ちを相手につたえたい台詞とか)って沢山ありますよね。
ツ君 ……世間からも、会社からも、家族からも、
ダ君 産廃扱い!
ツ君 女房のヤツに「53才の粗大ゴミ」! 「みんな仲良くやろうぜ」みた
いなメッセージ・ソング、ヤッ!
ダ君 会社で小突かれ、いじめられ、靴底擦り減らしてるより、
ツ君 花、咲かなくともいい。これ以上爺ィになったら勝負もできない!
二人 今夜こそ、渡りきる(「この荒川を」と二人、胸を開く)!
ツ君 アッ! 胸に白髪、
ダ君 ……じき五十。……五十年、オレ、何してきたんだろう……、
ツ君 (踊り)……ナーバス、ダメ。……突然、怒りだすんだから。
ダ君 ……(急に怒る)オレが、いつ怒った!
ツ君 ホラッ、怒ってる!
ダ君 ……キンタマ一つ無いから軽いんだ! ……チャラ・チャラ男!
ツ君 「キンタマ一つ無い。チャラ・チャラ男」。オイ! (ダ君の胸毛を
つかみ)その言葉口にしたらもうお終いだ!
ダ君 ……
ツ君 ……人生に成功したヤツなんてみんな嘘つき。でしょ? そう思お
う。ダメモトで、コツコツやろう。年下兄貴が、チャラ男の希望!
ダ君 ……ごめん、反省、
例えば、上の場面のツ君の台詞「(ダ君への感想-注)突然、怒り出すんだから」という台詞は、あなた(ツ君)と大間さん(ダ君)との長い付き合いの中から、あなたの内心の本音がふと独り言のように湧いて出た感じの台詞ですが、でも、それ、リアル(心理的・解釈的)にとって、小さな声で演じることは、現在のわたしたちの演技力の水準では到底不可能なことのように思います。とても難しい高度な演技になると思います。明確に他者(この場合、他者は大間さん(ダ君)一人ではなく、大前提として<観客>という他者も含まれると思います)明確にギリギリのところで、大間さん(ダ君)と観客に届けられるあなた(ツ君)の声の大きさが必要であり、その声のあり方を捜してみてくれませんか。これは、芝居というフォーマットが抱えている矛盾(壁)の一つです。バカデカイ声で言う必要はありませんけど、大間さんと話し合い、確認を取りながら、第三者である観客のことも勘定に入れて表現としての声の質感のあり方を考えてみて下さい。
(2)声の大きさや質感によるメロディ(流れ)について。
具体的にいうと、「声にオレらの人生体験貼りついてっから……渋い!」という台詞は、声の強弱や流れから、今後やってくる二人の「なぜ…」へと結びつられる序奏(助走)の台詞だと考えてくれませんか。「オレ等の歌、凄い」から「なぜ」までにいたる台詞はセット化された一群のグループ台詞としても遊びなんだかとして考えてみて下さい。以下の四行のグループ化された台詞の頂点は「なぜ」という台詞だと思います。
ツ君 (笑顔)オレらの歌、やっぱ凄い!
ダ君 (笑顔)かなり高度だね、
ツ君 声にオレらの人生年輪貼り付いてッから、……渋い!
二人 なぜ(強調)、(「お客さんに」)受けない!
わたしは、こういう場面の描き方は好きでよく書いています。たぶん故金杉忠男さんの台本からい模写したものだと思います。で、こういう<遊び>の場面の演技に心理的な解釈の導入はしないほうがよいと本気で思っています。歌で言えば、声の高さや大きさ、小ささが作り出すリズムによる小さな波形、それらがやがてやってくる落としどころの<さび>の凝縮へ、そして解放(なにも喋らない空白の時間)へと導く過程を、楽器みたいに演奏しているのだと思っています。そこら辺のところ、大間さんとわたしの付き合いは長いから彼にちょっと訊いてみて下さい。
台詞は、二人で作る共同作業の箇所が沢山あります。また一つ一つの台詞ではなく、セット化されているグループ群も作者は作っていますから、そのセットのどこかしらに落としどころを隠しています。そこいらへんとこを楽しんでみて下さい。
(3)二人で川に向かって叫ぶ台詞ですが、2人で台詞が合わないのであれば、「オーイ」と「そっちはどうだ」、一人一人に分けてしまってはどうでしょうか。自然に台詞が合わないのであれば、それは台本作家の台詞がダメなんで、表現の仕方は俳優さん(つまり稽古場で演じる俳優さん、稽古を毎日のように見続けている観客としての他の俳優+演出)が変更・決定していいのだと思います。仲間の俳優の演技を毎日ように見ている仲間の力は凄い洞察性を持っていますから。稽古場は、そういう解釈の自由度の拡大:変容をいかに保持できているかということがとても大切な気がします。
(4)津田さんと大間さんが埋めていないところを一つだけ挙げれば、ト書きの「泳ぎを止め、真剣な顔になる」の箇所です。この箇所も心理的に考えてもなにも出てこないと思います。ここは100%のフィクション(違う言葉でいえば嘘つき<ホラ吹きの身体の張り方>でいいのだと思います)目つきや動きの勢いを楽しみ(遊び)の一つとして探ってみて下さい。馬鈴薯堂の菅間のまたホラ吹いているバカな場面であると理解して下さい。その方がきっと楽しくなると思います。
細かいことをかきましたが、多分、津田さんと大間さん、とても面白いです。わたしの勝手をいいました。勘弁して下さい。
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ここで、前回の稽古場での俳優さんの演技についてわたしはなにをいいたかったのだろうか。
ひとつは、演劇を作る側からみればまだたくさんの弾性と可塑性の可能性を持っている表現形態であるということ。二つ目は、演劇を作る目的は一流の演劇者さんたちがなにを考えているのまったくわからない一介の素人の芝居愛好家の身としていえば、わたしだったら、ただただ生きているをじぶんを慰謝・慰撫したいだけだ、そう言い切っても過言ではない、アジール(聖なる逃げ場所・守護されている場所)なんて存在しないのだから。雑ないい方をすれば、演劇をやっている人たちは、もっともっと演劇から離れたほうがいいと思う。わたしは、漫画や小説(散文)、演劇のそれぞれの表現形態の本質を深く認識しているものではまったくないけど、それでも、それぞれの表現形態での自由と不自由の限界の壁は誰が見てももう十分に顕在化していて、もうどん詰まりの状態にあると思います。自由さに執着しても、不自由さに執着してもどちらでもOKで、執着の持続力でのみ微かにもう少し自由でありうる扉へと近づけるのだと思っています。
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ここからは、本番が終わって大間剛志さんと津田タカシゲさんについて、新型コロナの後遺症が残るぼくのボンヤリとした頭で書いたものです。いまでもお二人の演技にはちょっと驚いているところがあり、書きたいと思っている。
ごく普通にいえば、芝居の俳優をやりたいという動機は背の高い二枚目でお金持ちであったり、頭のきれる素敵な美人さんを演じることができたりすることに憧れるじゃないですか。しかしわたしの台本の登場するのはそういう人たちではなく、落ちこぼれで、貧乏で、顔も貧弱で、異性にもあまり相手にされない、また奇妙な癖があったり、一段格下の登場人物ばかりですが、集まってくれる俳優さんたちはよくそういうバカみたいな登場人物たちを甘んじて受け入れ、楽しく演じてくれてる。大間剛志さんと津田タカシゲさんもそんなぼくの書いた欠点ばかりある登場人物を楽しんで演じてくれている。
津田さんの<遊び>としての演技表現に驚いた箇所は、二人の「なぜ(強調)、(「お客さんに」)受けない!」という台詞の後のすぐの<遊び>の演技表現として表れる。
二人 なぜ(強調)、(「お客さんに」)受けない!
□少しの沈黙。
ダ君 ……最近、若い人たちの歌、ワリと真剣に聴いてんさ。でも、よく聴
き取れない。や、判んだ。新しい言葉の使い方の工夫や努力、
ツ君 新しい日本語、若い奴らの言葉、
ダ君 致命的なの、リズムとれない!
ツ君 とれません。あんな複雑なリズム、
ダ君 三橋美智也さんの「達者でな」、星野源さん、唄ったら、どうなる?
ツ君 (笑い、やるがやれない)……星野源さん、唄わないしょ、
ダ君 宮中とかでさ、天皇陛下とかが年始に歌会始めとかやるでしょ。畏ま
った歌い方……、
ツ君 (なんとかやる)「東風(こち)吹かばにほひおこせよ梅の花……」
ダ君 「「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日」。俵
万智さん、
ツ君 「この味がいいね」と君が言ったから七月。……いつまでやらせるの、
赤い色の字で書いた台詞の箇所の津田さんの表現行為(演技的な約20秒ほどの<遊び>の表出と構成感)を初めて見せてもらったとき唖然させられた。わたしにはまったく彼の演技表現の由来がほとんどわからなかったからだ。表現を発想するもともとの根拠がわたしたちとまったく違うんじゃないか、と感じた。舞台に演技者として立っていながら、彼はどういう地平に立って表現イメージを作り出しているのだろうか。
聴くところによると津田さんは音楽者であるらしい。しかし音楽者としての彼の余技の楽しさの表現ではない。そんな余裕はないはずだ。もっと視野の広い場所に立ち演技のイメージを想定し、表現を楽しんでいる感じがしきりにした。
たとえば、ダ君が落ち込んでいるのをツ君が見て、彼がダ君を笑わせ奮起させようと突然「野球のキツネダンス」を<踊る>シーンも彼の独壇場だ。いったい彼はどういう発想からそういう<遊び>の演技の繰り出してくるのだろうか。
ダ君 ……じき五十。……五十年、オレ、何してきたんだろう……、
ツ君 (踊り)……ナーバス、ダメ。……突然、怒りだすんだから。
ダ君 ……(急に怒る)オレが、いつ怒った!
ツ君 ホラッ、怒ってる!
ダ君 ……キンタマ一つ無いから軽いんだ! ……チャラ・チャラ男!
ツ君 「キンタマ一つ無い。チャラ・チャラ男」。オイ! (ダ君の胸毛を
つかみ)その言葉口にしたらもうお終いだ!
ダ君 ……
ツ君 ……人生に成功したヤツなんてみんな嘘つき。でしょ? そう思お
う。ダメモトで、コツコツやろう。年下兄貴が、チャラ男の希望!
ダ君 ……ごめん、反省、
ツ君 馴れてッから。(「胸毛」)抜く?
ダ君 いい、
ツ君 (ダ君に近づき胸毛に息を「フーッ」と吹きかける)
ダ君 (笑み)あ、なに?
ツ君 (再度やる)胸毛、なびく。アッ、面白い、
ダ君 (同じことをする)脇毛、なびく、
ツ君 (ダ君にまた「フーッ」)胸毛、キレイになびく。面白い。
ダ君 (再度やる)……凄んごく哀しいというの通り越して、生きてる価値
も無いみたい、
二人 (相互に息を胸毛、脇毛に「フーッ!」と笑う)
ここで、吉本隆明さんの文章を引用させていただく。
木に花咲き君わが妻とならん日の
四月なかなかとおくもあるかな(前田夕暮)
君の好きな曲さえ知らぬ一人(いちにん)が
君の新婦となる木の芽どき(俵万智)
著名な前の歌が率直な風俗(くにぶり)歌だとすれば、後の歌は遺恨やジェラシイを秘めた反風俗歌だといえるとおもう。写生も反写生も境界があいまいになった表現の領域では、歌格の違いを歌人の資質より時代の資質の違いととして見ることができるところがある。前田夕暮の歌は、純朴で率直な風俗(くにぶり)歌が都市でさえ保たれていた時期の肯定的な歌だ。俵万智の歌は風俗(くにぶり)の固有な習俗が地方からも大都市からも払底してしまって、区別がなどつかなくなっている現在の反風俗(くにぶり)歌だ。だがどちらも歌人として衆庶としてという場所をしっかりと表現している優れた歌におもえる。短歌は平易さ、平明を軸にして現在の状況の変動といっしょに動くとおもう。そう言わせるものが兆している。
●吉本隆明著『写生の物語』より「短歌の現在」。
「衆庶としてという場所をしっかりと表現している」という「衆庶」とは「一般大衆」という言葉に言い換えても差し支えないと思う。彼は、演技を演技者の視点から、「衆庶」という視点へ拡張している。そう理解したい。今回の芝居でこの体験は驚きそのものだった。
大間さん(ダ君)の演技表現への発想はわたしにはわかりやすい。