日付:2018年6月25日 

  芝居の台本の優しい書き方への ……(1)

 

西日暮里の諏訪神社から見たスポーツ・ジムの愉快な壁。親子三人が壁をよじ登っている。  

 

北村太郎さんの『ぼくの現代詩入門』から教えていただいたこと
 
 
    「詩の作り方のヒント」   北村太郎
 
 
    ★コトを書くよりモノを書こう

 
 
 物事(ものごと)ということばがありますが、初めて詩を書こうという人たちには、コトを書くよりモノを書くほうがやさしい。モノのうちには動物も人間も入れていいですが、ともかくコトをくだくだ書くよりも、モノを詩にするはうが楽なはずです。コトというのは、たとえぱ自分の恋愛 とか孤独とか人生観とかですが、それらを書くにしてもモノを取り入れながら書くようにしたほうがやさしいと思います。
 
        静物        吉岡実
 
    夜の器の硬い面の内で
    あざやかさを増してくる
    秋のくだもの
    りんごや梨やぶどうの類
    それぞれは
    かさなったままの姿勢で
    眠りへ
    ひとつの階調へ
    大いなる音楽へと沿うてゆく
    めいめいの最も深いところへ至り
    核はおもむろによこたわる
    そのまわりを
    めぐる豊かな腐爛の時間
    いま死者の歯のまえで
    石のように発しない
    それらのくだものの類は
    いよいよ重みを加える
    深い器のなかで
    この夜の仮象の裡で
    ときに
    大きくかたむく
 
 ほんとうのことをいうと、詩の本体はコトです。しかしコトを書くためには、まずモノを書くのが書きやすい、といいたいわげ。吉岡実には初期に「静物」の連作があり、ここにあげたのはその一つです。詩人はここで、器に入ったくだものに視線を据え、それを完壁な水彩画のように簡潔に描ききっています。どこにでもあるくだものを、これだつややかに書くのは吉岡さんなればこそでしょうが、皆さんでも、たとえぱオレソジとかレモソ、トウモロコシなど、果実を一つ目の前に置いて詩を書いてごらんなさい、案外たやすく習作が出来上がるかもしれませんよ。
 なぜぼくがこんなことをいうかというと、ぼくは投稿詩の選という仕事をずいぶんやってきて、そのたびに、恋愛、孤独、人生観といったコトがその大半のテーマにたっていて、しかも、ほとんどモノを使わず、生のかたちで、せつたい、さぴしい、世の中けしからん、などという抽象語の羅列に終わっているからです。絵がデッサンから、ピアノがバイェルから始まるように、作詩も基礎の作業を整理して、一種の初歩詩学書みたいなものを作ったほうがいいのではないかしら、と思うことがたびたびあったほど、抽象語の氾濫なのです。なぜそうなるかは、たいへんよく分かる。古い言い方をすれぱ、「思いが胸にあふれて」いるからでしょう。だからこそ詩を書こうと、だれしも思うのですが、詩はことばで書くもの、そう正確で適切なことばが簡単に出てくるわけがありません。いきおい、抽象語のオンパレードにたってしまう。思いが胸にあふれるのは大切ですが、そのことと、詩を書くこととは、まったく別なのだと、しっかり頭に入れて、考え方を切り替え、モノからコトに迫ってみたらいかがでしょうか。
 
 
     ★たくさん書いて、なるべく早く自分の詩の呼吸をつかむこと
 
 
 自分の詩の呼吸というのは、自分に合った、ほどよい長さの詩、という意味です。長短とりまぜ、いろいろな詩を書くのは先のこととして、それまでは、できるだげたくさん詩を書いてみて、自分にふさわしい長さを見っけることが大事です。詩のできばえは、むろん長短と無関係で、短ければよいというものでもなげれば、長けれぽ力作というわげでもありません。これがぼくの、わたしの詩の呼吸だな、と納得する長さが、けっきょくは一番自然だと思います。  ぼくは若いころ、幾つかの自分の詩がたまったところで読み返してみて、三十行前後の詩が多いことに気がつきました。たとえぱ、「墓地の人」は三十三行、「セソチメソタル・ジャー二ー*」は三十四行、「雨」は三十行といったぐあいです。そして、ああ、おれには三十行前後がぴったりしているんだな、平常の呼吸なんだな、と悟りました。以後、テーマによってはずいぶん長い詩も書きましたげれど、自分で気に入っている詩は、不思議とこの行数の範囲内に書かれています(たとえば、「おそろしい夕方」二十五行、「ヨコハマ 一九六〇年夏」三十行、「冬猫記」三十行など)。近ごろでは、おれ、長い詩も書きは書いたけど、短距離走者、つまりスプリソターがマラソソ・ラソナーにたったと同じで、かなり自分でも無理をしていたんじゃないかな、と反省したりすることがあります。
 ぼくの場合は三十行前後ですが、人によってはもっと短い行、もっと長い行がその人の呼吸に合っているはずで、それを早く知るのは、無理をしないためにもかなり大切なことのような気がします。前に紹介しましたが、中村稔はソネット形式、つまり十四行の詩が多いのですが、これはきっと彼の呼吸にぴったりなのでしょう。ぼくが通っている詩の講座の聴講生の中に、毎回、ごく短い詩を出す人がいます。もう四年近くなりますが、たいてい六、七行前後、つまり二百字詰原稿用紙一枚に収めてしまいます。この人には、それが詩の呼吸らしいのです。かと思うと、少し前、某雑誌の選考をやっていたときのことですが、毎月、必ず一篇四百字詰十枚の詩を送ってくる人がいました。この人の場合は、内容からみて、とても当人の詩の呼吸とは思われませんでしたけれど、その後どうなりましたか。
 むろん、呼吸というのはたとえ話で、とくに若いうちは、なんでもやってみようの積極性はけっこうだと思います。いろいろ試みて、うまくいくこともあるでしょう。それにしても、やはり自分にふさわしい呼吸を知っておくのも、いつかはきっと作詩のうえで役立つことがあると思うのです。
 
     ( 北村太郎著「ぼくの現代詩入門」1982年。発行:大和書房。 )
 
 
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 わたしの芝居の台本の書き方の教科書は、若い頃に読んだ詩人の北村太郎氏の「コトを書くよりモノを書こう」、「たくさん書いて、なるべく早く自分の詩の呼吸をつかむこと」がすべてだ。いまでも上の文章が芝居の台本を書くとき重要な役割を果たしてくれている。
 じぶんの芝居の長さ、呼吸、リズム、ドラマの展開、解体、凝縮、そし可能な範囲でコトをモノの背後に隠して書く、様々なことを教えてもらった文章です。
 わたしの最近の芝居は約1時間15分前後です。この時間をどこから導いてきたのかというと、いま書いている芝居のテーマや内容がこれこれだからということではなく、机に向かうじぶんの体力、稽古場で俳優に向かうじぶんの体力の消耗度・限界値から導き出してきた。これ以上長く書いてもいまのじぶんにはムダだし、短くても芝居にならないというじぶんなりの判断から芝居の時間と構成法を、上の文章から、それが限界ならそれで仕方がないからそれでやってみよう、そう思い決めた。
 
 このあとの北村太郎氏の「一篇一篇の詩のリズムに気を使おう」等も、面白いので続けて引用させていただきます。もちろん北村さんの文章は詩についての話ですが、芝居の台本の書き方のヒントとして読んでみて下さい。誰でも芝居の台本を書いていいし、誰でも書けるんだ、それをどのように具体化するかを北村さん詩学から学んだ。
 
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