日付:2022年3月14日 

  谷川俊太郎さんの言葉にふれる (2)

 

 

 

◎ 谷川俊太郎さん。ネット上の写真より拝借いたしました。 

 
  詩はどこへ行ったのか


     漫画にコスブレに
     薄く広がった詩情
     金や権力なじまぬ
 
 
 かつて、詩は文系青年のたしなみであり教養でもあった。ところが、いまは社会の表舞台から姿を消したように見える。詩はどこへ行ったのか。現代における数少ない詩人谷川俊太郎さんに詩のありかを尋ねた。 (聞き手・鈴木繁)
 
 
 ーー 最近、社会の中で詩の影がずいぶん薄くなった気がするんです。
 
 詩が希薄になって瀰漫(びまん)している感じはありますね。詩は、コミツクスの中だったり、テレビドラマ、コスプレだったり、そういう、詩と呼ぶべきかどうか分からないもののなかに、非常に薄い状態で広がっていて、読者は、そういうものに触れることで詩的な欲求を満足させている
 
 
 ーー コスプレも詩ですか。
 
 『詩』には、二つの意昧がある。詩作品そのものと、ポエジー、詩情を指す場合です。詩情は詩作品の中にあるだけではなく、言語化できるかどうかもあやしく、定義しにくい。でも、詩情はどんな人の中にも生まれたり、消えたりしている。ある時には絵画に姿を変え、音楽となり、舞踊として現れたりします
 
 
 ーー ことばじゃないものにも詩情があるということでしょうか。
 
 ぼくが生まれて初めて詩情を感じたのは、小学校の4年生か5年生くらいのころに隣家のニセアカシアの木に朝日がさしているのを見た時です。生活の中で感じる喜怒哀楽とはまったく違う心の状態になった。美しいと思ったのでしょうが、美しいということばだけで言えるものではなかった。自分と宇宙との関係のようなものを感じたんでしょうね
 
 
 ーー とはいえ、詩情を一番、色濃く伝えるのは現代詩、だと思うのですが。
 
 『スラムダンク』(井上雄彦のマンガ)にも詩情はあるのではないでしょうか。しかも1億冊売れている。現代詩の詩集は300冊売れればいいほうです。長い歴史をもつ俳句や短歌も詩ですし、現代詩より圧倒的に強い。現代詩は第2次大戦後、叙情より批評、具体より抽象、生活より思想を求めて難解になり、読者を失っていった。加えて現代詩の衰退は、近代日本語が特殊な変化をしたことと関係していると思う
 明治期に欧米輸入の思想や観念を、苦労して漢語という外国語で翻訳した。でも、身についていない抽象語で議論をはじめると、すごく混乱しちゃいますよね。現代詩も同じ。現代詩は伝統詩歌を否定したところから始まっている。詩は人々をむすぶものであるはずなのに、個性、自己表現を追求して、新しいことをやっているという自已満足が詩人を孤立させていった
 
 
 ーー ただ、1950、60年代には現代詩ブームがありました。詩集も売れた。
 
 反体制的な面が若い人に迎えられましたから。詩は、散文のような明快な主張をしませんが、その多義性がむしろ若い読者をとらえたのかもしれない。『荒地』の詩人や吉本隆明、黒田喜夫ら左翼系の詩人は一種のオピニオンリーダー的な役割を果たした。そのころ、詩は前衛であるという概念が流通してましたし
 
 
 ーー ところが、社会主義がユートピアじゃないと分かり、前衛思想が衰退した。
 
 そこは、現代芸術全体に共通していますね。詩だけじゃありません、高度資本主義が芸術を変質させている
 
 
        
 
 
 ーー その中で谷川さんは、ずっと詩人として活躍されている。
 
 批評の基準というものが共有されなくなっていますから、みんな人気ではかる。詩人も作家も美術家も好きか嫌いか、売れてるか売れてないかで決まる。タレントと変わりなくなっています。ぼくの紹介は『教科書に詩が載っている』『スヌーピーの出てくる人気マンガを翻訳している』谷川さんです。でも、それはあんまりうれしくない
 
 
 ーー どうしてですか? 職業詩人として、商品としての詩を書く、と以前あえて言明されていたと思いますが……。
 
 確かに、その部分でぼくは主に仕事としている。じゃあ、それでいいのかとは思いますね。子どもから老人にまで受ける百貨店的な詩を書いて、自分はそれでやっているけれど、他の詩人たち、詩の世界全体を見渡した時に、自分がとっている道が唯一だとは思いません。詩は、ミニマルな、微少なエネルギーで、個人に影響を与えていくものですからね。権力や財力のようにマスを相手にするものじやない。ウィリアム・ブレイク(18~19世紀の英国の詩人)は、
 
  一粒の砂に 世界を見
  一輸の野の花に 天国を見る
 
 と書いています
 
 
 ーー 谷川さんの詩の出発点である、朝日さすニセアカシアに感じた自分対宇宙の感覚とつながる……。
 
 人間を宇宙内存在と社会内存在が重なっていると考えると分かりやすい。生まれる時、人は自然の一部。宇宙内存在として生まれてきます。成長するにつれ、ことばを獲得し、教育を受け、社会内存在として生きていかざるをえない。散文は、その社会内存在の範囲内で機能するのに対し、詩は、宇宙内存在として被(おお)われる以前の存在そのものをとらえようとするんです。秩序を守ろうと働く散文と違い、詩はことばを使っているのに、ことばを超えた混沌にかかわる
 
 
     割り切れなさ奪う
     言葉のデジタル化
     音や手触りが重要
 
 
 ーー そういう出自からして詩は、秩序と折り合いが悪そうですね。
 
 資本主義とは特に。短歌・俳句は結杜として、作品がお金にからんだりしますが、現代詩は、貨幣に換算される根拠がない。非常に私的な創造物になっています
 
 
 ーー 若者には詩的なものが必要になる時期がある、と書いておられますが、今の若者は、生きづらそうですね。
 
 どう生きるかが見えにくい。圧倒的に金銭に頼らなくちゃいけなくなってますからね。お金を稼ぐ能力がある人はいいけれど、おれは貧乏してもいい詩を書くぞ、みたいなこどがみんなの前で言えなくなっている。それを価値として認める合意がないから『詩』よりも『詩的なもの』で満足してしまう
 
 
        
 
 
 ーー インターネツトはどうでしよう。原則無料の「ことばの海」対自分という関係は、詩を生みやすい気がします。
 
 ネットの問題は『主観的なことばが詩』という誤解に陥りやすいということですね。ブログが単なる自分の心情のハケ口になっているとしたら、詩の裾野にはなりえないでしょう
 
 
 ーー 詩は、短い文による自己表現と定義できそうな気がしていましたが。
 
 『詩ほ自己表現である』という思い込みは、短歌の伝統が色濃い日本人の叙情詩好きともあいまって一般には非常に根強いし、教育界でも未だになくならない。昔、幼児向けの『ことばあそびうた』を発表した時、
 
   はなののののはな はなのななあに
   なずななのはな なもないのばな
 
という詩句に、幼稚園の先生から『気持ちを表現していないので、教えられない』と苦情を言われたことがあります。ぼくは、美しい日本語を、そこに、一個の物のように存在させることを目指しているんですけど
 
 
 ーー ネットの浸透は、詩のことばに影響を与えていますか。
 
 デジタル情報が膨大に流れていて、言語系が肥大していることの影響が何より大きい気がします。世界の見方が知らず知らずのうちにデジタル言語化しているのではないか。つまり、ことばがデジタル的に割り切れるものになっているような。詩はもっともアナログ的な、アナロジー(類推)とか比喩とかで成り立っているものですからね。詩の情報量はごく限られていて、あいまいです。
 
     古池や蛙飛び込む水の音
 
という芭蕉の句にはメツセージは何もないし、意味すらないに等しいけれど、何かを伝えている。詩ではことばの音、声、手触り、調べ、そういうものが重要です
 
 
        
 
 
 ーー 今の若い人の方言ブームというのも、デジタル化されたことばに対する不安や反発があるのかもしれませんね。
 
 標準語一辺倒だったNHKも地方局では最近はずいぶん方言を許容してきましたね。昔、高木恭造という津軽弁の方言詩人の朗読をソノシートで聞いて、非常に美しい響きに感動したことがあるんですよ。意昧はまったく分からない。だけど共通語訳がついていて、それを読むと、立ち小便をうたった詩だったんです。あれは不思議な感覚でした
 
 
 ーー 詩情を探す、発見するノウハウを教えてもらえませんか。
 
 詩情は探すものではなくて、突然、襲われるようなものだと思うんです。夕焼けを見て美しいと思う、恋愛してメチヤクチヤになる、それも、詩かもしれません。、ぽくも詩を書く時は、アホみたいに待ってるだけです。意味にならないモヤモヤからぽこっとことぱが出てくる瞬間を
 
 
 ーー 詩人体質の若者は、現代をどう生きたらいいんでしょう。
 
 まず、『社会内存在』として、経済的に自立する道を考えることを勧めます。今の詩人は、秩序の外に出て生きることが難しい。そうだなあ、時々、若者が世界旅行に行って、帰ってきてから急にそれまでとまったく違う仕事をしたりするじゃないですか、あれは、どこかで詩情に出会ったのかもしれないな
 
 
 ーー 社会秩序とは別に、詩情が媒介する人間関係が、60年代ごろまでは、ひそかに機能していた気がするんですが、どうなってしまったんでしょう。
 
 かつては、あったかも。でも今は本当に薄く広く、あるいは、部分的限定的になっていて、掬(すく)おうにも掬えない。金銭に換算されないものの存在感は急激に減少しています。だから、これからの詩はむしろ、金銭に絶対換算されないぞ、ってことを強みにしないとダメだ、みたいに開き直ってみたくなる
 
 
 ーー ということは、60、70歳になっても、生き方としての詩人を目指せる?
 
 富や名声や地位から離れてからね
 
 
        
 
 
谷川俊太郎さん(たにかわしゅんたろう)
31年東京生まれ。52年に詩集二十億光年の孤独を発表。その後話題となる詩集を多数刊行し、翻訳や作詞も手がけてきた。
※2009年(平成21年)11月25日(水)朝日新聞掲載
 
 
        
 
 
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