日付:2018年2月

 ~ふたつの目をもつこと~  「踊り子」の自己評価

 

蕎麦

故吉本隆明さんと糸井重里さんの対談  

 
   ~ふたつの目をもつこと~
 
 
 吉本隆明  例えばラーメンでもいいけど、僕らみたいな、ラーメンについて特別の好みを持っていない人間からすると、こんなのおつゆがどうだっていうだけじゃねぇか、こんなものは簡単じゃないか、と思いたくなるし、ほんとうは思ってるかもしれません(笑)。なんに対しても「それがどうしたんだ」というふうに言いたくなるのは、やっぱり遠くにいれば、そうですよね。しかし、糸井さんが、ラーメンはどこがうまいとか、どういう味がうまいというのを追求したことがあるのを、僕は憶えてますけど、うまいラーメンを出すということは、そう簡単に成し遂げられるものだなんて思わないほうがいいぞ、ということを。糸井さんは知っているんじゃないでしょうか。
 
 糸井重里  そうですね。そう思ってはいます。
 
 吉本隆明  近くに行けばそれがわかるんです。ですから、べつに知識の専門家だけがそう言われることはないし、ご当人も威張る必要はないでしょう。だけど、やっぱり自分のやってきたことは、威張りたくもなります。
 
 糸井重里  はい。ラーメン屋さんも、染め物職人も近くにいて、それが少しでも伝わる弟子には、威張りますね。
 
 吉本隆明  我々はそうなりがちなんです。やったことの苦労や熟練は、みんな同じです。みんな同じだけちゃんとやることになるんだよということは決まっているわけですよ。べつに不平等も何もないです。なのに、威張ります。自分もときどき威張ってないつもりなんだけど威張ったようなことを言ったりしますから、あまり人のことは言えないわけですけど、その都度内心で「しまった」というふうに、「思う人」と「思わない人」がいると思います。そこしかないですよ。あとは、区別すべきことは何もないと思います。これは、心得として憶えておかなくちゃいけないんだと思います。……ある人が夢中になって、あることの専門家になったとします。専門家になるまで修練も積み、力もそれだけになりました。そしたら、その人は、「その専門の人間」じゃなくて「専門の人間」になっているんですよ。
 
 糸井重里  「専門の人間」。
 
 吉本隆明  それは、肉体労働でも精神労働でも同じです。働いたら、働いたところだけがひとりでに異常に発達するんですよ。それは「そうでないといけないぜ」ということでもありますが、そうなんです。でも、僕なんかは、それは反省材料の大きな柱のひとつです。うかうかと自分の専門ばかり追求していると、お前、いつの間にか普通の人から比べたら、足は壊疽にかかったじゃねぇか、お前がそれだけ歩かないですむことをやっている証拠だ、と言われたら、そのとおりです。
 
 糸井重里  頭を大事にしてきたから、と。自分がそうなっているんですね。
 
 吉本隆明  これはね、僕の考えでは、ある瞬間、元に戻さないといけない。だから、親鸞みたいに俺はちっとも浄土なんかに行きたくねぇや、というのは、まっとうな考えだと思います。「偉い坊さん」というのは、たいていそうじゃないですよ。やっぱり俺はここでこういう修行をしたから、こうなったんだと言いたがります。
 
 糸井重里  ただただ階段を登って、降りられなくなっちゃうんですね。
 
 吉本隆明  同じように、肉体労働者の人は、確かに普通の人より何かを持ち上げたりできるし、疲れる度合いが少なくなっています。それは当然だし、立派なことです。だから、自分でもある瞬間にはそれを誇ってもいいのかもしれないけど、いつでも商売のように誇っていると、お前、とんでもない勘違いをするぞということになるわけです。ほかの人だって、自分のいちばん向いていることをして、みんながいっせいにそれを披瀝したら、みんなそうとうすごいんだよ、ということをわかっておいたほうがいいんです。自分もすごいことを誇ってもいいかわりに、勘違いをしちゃいけないよ、ということもわかっておかなくてはいけないんです。自分の専門としていることに自分は影響されていないと思っているかもしれないけど、それは大嘘です。何かをやって、それが自分のものになっていたら、その人は必ずそういう人間になっている。それは美点としても弱点としても自分はそういうのになっているよ、ということです。だからむしろ、「ただの人間」というのに 自分を直さないと、いつの間にかへんてこりんなことになっちゃう。マルクスあたりの人はそう言ってます。著作業であるマルクスはほんとうは自己の著作のために死ぬことだってあり得るんだと、 遠くから見ている人にそう言い返してやりたい思いはある。物書きであろうと、みんなそれはちゃんとやるべきことはちゃんとやっているんです。物書きだって、黙っている人だって、みんなそうなんです。

(「ほぼ日刊イトイ新聞」の「吉本隆明のふたつの目」の故吉本隆明さんと糸井重里さんの対談の抜粋)

 

 菅 間  勝手に掲載させていただいたんですけど(~この場を借りて掲載したことをお詫びにしてます~)、吉本さんの「ふたつの目」というキーワードが好きで、それに掲載させてもらった文章は、吉本さんの思想にとって大きく重要なイメージをもっているる対話、言葉なんだと思うんです。
 
 聞き手  それは、どういう意味で?
 
 菅 間  たぶん、ここで、吉本さんの「ふたつの目」とは、だれでもがこの世界に生活していくとは望むと望まないとにかかわらず「職業としての専門家」であらざるをえないという立場につくわけです。だれでもがサラリーマンであったり、自家営業者であったり、専門的な職業者であらざるをえないわけで、その仕事で収入をえ、じぶんや家族を養っていくわけです。でもそのひとも、たとえば、どんな偉い彫刻の名人達人でも、ラーメン屋さんの亭主でも、その他ものすごいひとでも、「現在に生きている一般大衆としての一人の生活者」だという立場もあわせもっているわけです。その二つの視座を喪ってはダメで、その二つの視線「目」をじぶんのなかにもち続けたほうがいいんだよ、そう吉本さんはお話しになっているんだとおもうんです。
 

   ☆この稿、つづく